
FEATURE
公演が消えた世界
ミュージシャン、オ・ジウンが送る手紙
2021.04.08
*記事イメージ出処:公演音楽生存のための連帯グループ
パンデミック以降1年が経った。日常の回復はいつしか遙か遠いものとなり、非日常的に感じられていた多くのことが、今や日常になっている。多くの国々でワクチン接種により過去の日常を取り戻すだろうと期待してもいるが、過去を回復するのはまだ未来のことだ。そしてその間に私たちが失ったものがあり、またその世界で生きて行く人々がいる。以下の文章は、ミュージシャン、オ・ジウンからの手紙だ。/編集者注
こんにちは。私は音楽を生業としているオ・ジウンと申します。2005年から弘大にあるライブハウスでライブを始め、1stアルバムは2007年に出しました。幸運にも今までやりたい音楽をやりながら暮らしています。
サロン・パダビというライブハウスがありました。過去形で表現しなければならないので、もう既にちょっとつらいです。とても小さいスペースでした。20人ぐらい入れば、あ、かなりいっぱいじゃない?と思うほど、小さかったです。弘大には小さなライブハウスがたくさんありましたが、その中でも小さい方でした。
率直に言えば、私は小さいステージはあまり好きではありません。正確に言うと、小さいステージで起きやすい、リスキーな要素が怖いのです。いくつかあるのですが、まず、観客のエネルギーがあまりにダイレクトだと、ライブの空気に影響を受けやすいこと(観客が軽く咳をしただけでも、全部聞こえますよね)と、元々ライブハウスとして使われる場所ではない場合(独立系書店や展示場のような場所です)、音響のバランスが良くない確率が結構あるということ。だからそういう場所でライブをしようとすると、勇気が必要です。聴く方々にはよくわからないでしょうが、そんな事情があったのです。
でもパダビはちがいました。パダビの音響はいつも最高でした。繊細に設計されたスペースでもなく、すごい機材があるわけでもないのにです。音響を担当していたヒゲ社長は、音響の専門家ではなく詩人でしたが、不思議なことにパダビの音はいつもすばらしかったです。素敵な偶然と心が重なり合った時、そういう奇跡が起こるんだと思います。幼稚な表現ですが、魔法のような瞬間です。パダビのステージに立った時を思い出すと、まるで私と一緒に走ってくれそうな表情の観客たちと、コンソールの前に立ったヒゲ社長の笑顔と、ブルーの照明と、湿度の高い空気が思い出されます。そして、目を閉じて歌を歌っていて、ふと、ああ、私今日は遠くまで行けそうだな、と思ったこともです。それがとても好きで、いつかライブをまるごとレコーディングしてアルバムを作るとしたら、パダビでやりたいなと思っていました。今はもうできなくなってしまいました。サロン・パダビは、2015年に幕を下ろしました。
サロン・パダビがオープンして2年目の2007年に、社長がインタビューでこんなことを言っていました。「パダビは流れていく場所です。人は流れ続けるものですよね。創作活動をする人も大衆も、この場所に留めておくことはできません」。私も流れていきました。アルバムを出して、私の音楽を聴く方々が増え、私はより大きな会場に移りました。20人が200人になり、400人、800人になり、いつの間にか私はオリンピック公園の水辺ステージに立つようになりました。あるフェスティバルのトリでした。それでも1年に1度はパダビのステージに立ちました。あの、遠くに行けそうな気分を味わいたかったからです。観客と空間が私の背中を押してくれる気分。
あるミュージシャンは自分の部屋で、あるミュージシャンはスタジオで、またあるミュージシャンはステージで成長します。そのすべての過程を経ることもありますし。ライブで曲をどう配置して、途中のコメントをどういう風にして、歌に集中していたところからどうやってまた抜け出したらいいのか、最初から知っている人はいませんよね。多くの弘大のミュージシャンはライブハウスでその訓練をします。そして自分の音楽がその空間に響き渡る時どんな気分か、歌をどのように歌い、アレンジをどのようにすべきか、どうやって観客とコミュニケーションするのかを学びます。最もすばらしい点は、自分の音楽に心をゆだねてくれる人たちの目を、リアルタイムで見ることができるということです。どんな観客がいるかによって、その日の雰囲気は完全に変わります。自分の音楽を愛する人たちがいる客席を前にして歌う気分は、言葉では説明できません。とても大変ですが、とてもすばらしいことです。
たくさんのミュージシャンたちが弘大からスタートしました。紫雨林、Crying Nut、No Brainは既に伝説ですね。私と同じ時期にライブハウスでライブを行っていたミュージシャンには、チャン・ギハと顔たち、ブロッコリーノマジョ、9と数字たちなどがいます。運の良い観客は、結成間もないエネルギーにあふれたチャン・ギハと顔たちのライブを、たったの2万ウォンで見たことでしょう。弘大のライブハウスはそんな場所です。とても楽しい何かが生まれて育つ場所。
そしてコロナの時代がやってきました。たくさんの人たちがつらい思いをしています。文化というものは、最も大変な時期に力になったりもしますが、場合によっては一番最初に排除されるものでもあるんです。生きていくのに直接影響を与えるものではないからです。多くのことが次第に許可されてきていますが、公演の場合は厳しかったです。特に大衆音楽の公演です。ライブハウスなどで感染した事例が1件もないにもかかわらずです。なぜそうなのか気になっていたところ、ある書き込みを見ました。
「よくもこんな時期に、公演をしようとするな」
私はたくさんのことがわかった気がしました。よくも。ある人たちにとって私の職業はそんなものだったのです。コロナにより公演やイベントが減り、これからの人生をどうやって乗り越えていくべきかと悩んでいたことよりも、そんな言葉にもっと傷つきました。私は徐々に力をなくしました。
社会のあちこちから「お前は必要ない」というサインが送られているような、そんな時、人は自分の存在理由について悩み、懐疑心を持つようになりますよね。今年の2月27日、こんなことがありました。防疫規則を徹底して守り、ライブの準備をしていたライブハウスがありました。ライブハウス関係者は2週間前に区役所に電話をして、ライブ開催が可能だという答えをもらっていました。土曜日の夕方のこと、その日出演予定のバンドはリハーサルを終えた状態で待っていました。ファンたちもライブハウスに集まっていましたし。その時突然区役所から職員たちが来て、ライブを中断させました。ライブを準備していたライブハウス側とミュージシャン、観客たちはすごく戸惑いました。なぜかというと、ライブはカフェで友だちと会う約束をするのとはちがうからです。私の場合は、ライブを1回するのに、少なくとも2か月の練習期間が必要です。それは、一緒にプレイする演奏者たちも2か月の時間を要するという意味です。何もないスペースにミュージシャンと観客だけが入って、公演が行われるわけでもありません。音響と照明担当がいて、チケット担当の人も必要ですよね。ライブハウスは毎月家賃を払ってその空間を守ります。そしてそのライブの日を指折り数えて待っていた観客たちがいます。私はその知らせを聞くや否や、もし地方から来た人がいたらどうしようと、ひやひやしました。
その後はもっとひどかったです。麻浦区役所の関係者は、その事件についてこんなことを言いました。「世宗文化会館のような場所こそが公演会場であり、一般飲食店で行う喜寿のお祝いのようなものは、コロナの前はただ見逃していただけで、コロナ以降は当然だめではないか」。私は腹が立ちました。弘大のライブハウスでライブをするミュージシャンと、世宗文化会館で公演を行うミュージシャンは、異なる存在ではありません。文化生態系を全く理解できない、無神経な言葉に腹が立ったし、弘大が位置する麻浦区役所の関係者の口から、そんな言葉が出たという事実に腹が立ちました。そしてTwitterで意見を述べた私に、ある人は言いました。「笑わせるな。あんたのライブが喜寿の祝いほどの価値があるのか?」
ミュージシャンと関係者たちはキャンペーンを始めました(#LiveMusicLIves #私たちの公演私たちの仕事場などのハッシュタグで確認できます)。公演を愛する数多くの人々が署名に参加してくださり、麻浦区役所からはすぐに回答がありました。防疫指針を遵守するのであれば、ライブハウスでもまた公演ができると。しかし、まだまだ道のりは長いといえます。関連法のためです。
弘大のライブハウスがなぜ一般飲食店として登録されているのか、気になるかもしれません。法によるものです。今ライブハウスを管轄している法は、1999年に制定されたものです。その前まではライブハウスでの公演は違法でした。1998年、ミュージシャンたちと店がライブハウス合法化運動を行って、翌年法が改正されました。でも、一般飲食店での公演を許可するという内容の中途半端な法でした。公演法上、公演会場として登録しようとしたら、公演の日数が年間90日以上、あるいは連続30日以上なければいけません。週末の2日間だけライブを行うことが多いライブハウスは、そんな条件を満たすことができません。だから一般飲食店として登録しています。チケットの販売だけでは足りない収益を、ドリンクの販売で補ったりしています。ビール1杯飲みながらライブを観るのも、この文化の魅力ですから。
この前はイ・ソラさんの公演がキャンセルされました。大衆音楽のコンサートはミュージカルやクラシック・コンサートとは異なり、「イベント」に分類されているということがその理由です。コロナの感染状況によってガイドラインがその都度変わり、私の場合も公演をキャンセルすべきかぎりぎりまで気を張っていたことがあります。いくら長い期間準備しても、ガイドラインが変われば、公演をキャンセルしなければなりません。ところがおかしな点は、同じ公演会場でも、ミュージカルやクラシック音楽の場合は公演を開催することができ、大衆音楽はできないということです。政府関係者たちが考える大衆音楽の公演とは、何なのでしょうか。芸術性のない、文化的価値のない、一種の騒ぎのようなものでしょうか。
文化にはさまざまな姿があります。さまざまな出発点があり、さまざまな成長があり、さまざまな用途とさまざまな結果があります。ものすごく迫力あるサウンドのK-POPを聴きたくなる時があれば、ある時はゆったりと口ずさむインディー・ミュージックが聴きたいこともあります(もちろんゆったりとしたK-POPもあり、迫力あるインディー・ミュージックもあります)。ソウルの乙支路には、ホテル水仙花というカフェ・バーがあります。ライブも時々行われますし、とても小さくてクールです。数多くのアーティストがその場所でグラビアを撮影しています(世間ではSHINeeが撮った写真が最も有名だと思います)。世の中にはメジャーからちょっと逸れた、不思議で面白く、小さいものが好きな人たちがいますよね。その人たちが妙で変で、かっこいい空間を作ると、噂になって、さらにおもしろい人たちが集まり、ライブも行われ、そうやって文化の幹が生まれます。その幹から独特な実が育って。文化はそんな風に巡り巡ると思っています。どちらか一方が優れているとか、より重要なのではありません。
この文章を読んでいる方々は、既に音楽と公演の大切さをよくわかっていらっしゃるだろうと思います。大切なものをより大切にしてください。コロナの感染者数が再び増加傾向にあるそうです。防疫を徹底して守ってコロナが終息し、私たちが味わっていた瞬間をもう一度取り戻すことができたらと思います。
読んでくださり、ありがとうございます。
2021年4月
オ・ジウン拝
パンデミック以降1年が経った。日常の回復はいつしか遙か遠いものとなり、非日常的に感じられていた多くのことが、今や日常になっている。多くの国々でワクチン接種により過去の日常を取り戻すだろうと期待してもいるが、過去を回復するのはまだ未来のことだ。そしてその間に私たちが失ったものがあり、またその世界で生きて行く人々がいる。以下の文章は、ミュージシャン、オ・ジウンからの手紙だ。/編集者注
こんにちは。私は音楽を生業としているオ・ジウンと申します。2005年から弘大にあるライブハウスでライブを始め、1stアルバムは2007年に出しました。幸運にも今までやりたい音楽をやりながら暮らしています。
サロン・パダビというライブハウスがありました。過去形で表現しなければならないので、もう既にちょっとつらいです。とても小さいスペースでした。20人ぐらい入れば、あ、かなりいっぱいじゃない?と思うほど、小さかったです。弘大には小さなライブハウスがたくさんありましたが、その中でも小さい方でした。
率直に言えば、私は小さいステージはあまり好きではありません。正確に言うと、小さいステージで起きやすい、リスキーな要素が怖いのです。いくつかあるのですが、まず、観客のエネルギーがあまりにダイレクトだと、ライブの空気に影響を受けやすいこと(観客が軽く咳をしただけでも、全部聞こえますよね)と、元々ライブハウスとして使われる場所ではない場合(独立系書店や展示場のような場所です)、音響のバランスが良くない確率が結構あるということ。だからそういう場所でライブをしようとすると、勇気が必要です。聴く方々にはよくわからないでしょうが、そんな事情があったのです。
でもパダビはちがいました。パダビの音響はいつも最高でした。繊細に設計されたスペースでもなく、すごい機材があるわけでもないのにです。音響を担当していたヒゲ社長は、音響の専門家ではなく詩人でしたが、不思議なことにパダビの音はいつもすばらしかったです。素敵な偶然と心が重なり合った時、そういう奇跡が起こるんだと思います。幼稚な表現ですが、魔法のような瞬間です。パダビのステージに立った時を思い出すと、まるで私と一緒に走ってくれそうな表情の観客たちと、コンソールの前に立ったヒゲ社長の笑顔と、ブルーの照明と、湿度の高い空気が思い出されます。そして、目を閉じて歌を歌っていて、ふと、ああ、私今日は遠くまで行けそうだな、と思ったこともです。それがとても好きで、いつかライブをまるごとレコーディングしてアルバムを作るとしたら、パダビでやりたいなと思っていました。今はもうできなくなってしまいました。サロン・パダビは、2015年に幕を下ろしました。
サロン・パダビがオープンして2年目の2007年に、社長がインタビューでこんなことを言っていました。「パダビは流れていく場所です。人は流れ続けるものですよね。創作活動をする人も大衆も、この場所に留めておくことはできません」。私も流れていきました。アルバムを出して、私の音楽を聴く方々が増え、私はより大きな会場に移りました。20人が200人になり、400人、800人になり、いつの間にか私はオリンピック公園の水辺ステージに立つようになりました。あるフェスティバルのトリでした。それでも1年に1度はパダビのステージに立ちました。あの、遠くに行けそうな気分を味わいたかったからです。観客と空間が私の背中を押してくれる気分。
あるミュージシャンは自分の部屋で、あるミュージシャンはスタジオで、またあるミュージシャンはステージで成長します。そのすべての過程を経ることもありますし。ライブで曲をどう配置して、途中のコメントをどういう風にして、歌に集中していたところからどうやってまた抜け出したらいいのか、最初から知っている人はいませんよね。多くの弘大のミュージシャンはライブハウスでその訓練をします。そして自分の音楽がその空間に響き渡る時どんな気分か、歌をどのように歌い、アレンジをどのようにすべきか、どうやって観客とコミュニケーションするのかを学びます。最もすばらしい点は、自分の音楽に心をゆだねてくれる人たちの目を、リアルタイムで見ることができるということです。どんな観客がいるかによって、その日の雰囲気は完全に変わります。自分の音楽を愛する人たちがいる客席を前にして歌う気分は、言葉では説明できません。とても大変ですが、とてもすばらしいことです。
たくさんのミュージシャンたちが弘大からスタートしました。紫雨林、Crying Nut、No Brainは既に伝説ですね。私と同じ時期にライブハウスでライブを行っていたミュージシャンには、チャン・ギハと顔たち、ブロッコリーノマジョ、9と数字たちなどがいます。運の良い観客は、結成間もないエネルギーにあふれたチャン・ギハと顔たちのライブを、たったの2万ウォンで見たことでしょう。弘大のライブハウスはそんな場所です。とても楽しい何かが生まれて育つ場所。
そしてコロナの時代がやってきました。たくさんの人たちがつらい思いをしています。文化というものは、最も大変な時期に力になったりもしますが、場合によっては一番最初に排除されるものでもあるんです。生きていくのに直接影響を与えるものではないからです。多くのことが次第に許可されてきていますが、公演の場合は厳しかったです。特に大衆音楽の公演です。ライブハウスなどで感染した事例が1件もないにもかかわらずです。なぜそうなのか気になっていたところ、ある書き込みを見ました。
「よくもこんな時期に、公演をしようとするな」
私はたくさんのことがわかった気がしました。よくも。ある人たちにとって私の職業はそんなものだったのです。コロナにより公演やイベントが減り、これからの人生をどうやって乗り越えていくべきかと悩んでいたことよりも、そんな言葉にもっと傷つきました。私は徐々に力をなくしました。
社会のあちこちから「お前は必要ない」というサインが送られているような、そんな時、人は自分の存在理由について悩み、懐疑心を持つようになりますよね。今年の2月27日、こんなことがありました。防疫規則を徹底して守り、ライブの準備をしていたライブハウスがありました。ライブハウス関係者は2週間前に区役所に電話をして、ライブ開催が可能だという答えをもらっていました。土曜日の夕方のこと、その日出演予定のバンドはリハーサルを終えた状態で待っていました。ファンたちもライブハウスに集まっていましたし。その時突然区役所から職員たちが来て、ライブを中断させました。ライブを準備していたライブハウス側とミュージシャン、観客たちはすごく戸惑いました。なぜかというと、ライブはカフェで友だちと会う約束をするのとはちがうからです。私の場合は、ライブを1回するのに、少なくとも2か月の練習期間が必要です。それは、一緒にプレイする演奏者たちも2か月の時間を要するという意味です。何もないスペースにミュージシャンと観客だけが入って、公演が行われるわけでもありません。音響と照明担当がいて、チケット担当の人も必要ですよね。ライブハウスは毎月家賃を払ってその空間を守ります。そしてそのライブの日を指折り数えて待っていた観客たちがいます。私はその知らせを聞くや否や、もし地方から来た人がいたらどうしようと、ひやひやしました。
その後はもっとひどかったです。麻浦区役所の関係者は、その事件についてこんなことを言いました。「世宗文化会館のような場所こそが公演会場であり、一般飲食店で行う喜寿のお祝いのようなものは、コロナの前はただ見逃していただけで、コロナ以降は当然だめではないか」。私は腹が立ちました。弘大のライブハウスでライブをするミュージシャンと、世宗文化会館で公演を行うミュージシャンは、異なる存在ではありません。文化生態系を全く理解できない、無神経な言葉に腹が立ったし、弘大が位置する麻浦区役所の関係者の口から、そんな言葉が出たという事実に腹が立ちました。そしてTwitterで意見を述べた私に、ある人は言いました。「笑わせるな。あんたのライブが喜寿の祝いほどの価値があるのか?」
ミュージシャンと関係者たちはキャンペーンを始めました(#LiveMusicLIves #私たちの公演私たちの仕事場などのハッシュタグで確認できます)。公演を愛する数多くの人々が署名に参加してくださり、麻浦区役所からはすぐに回答がありました。防疫指針を遵守するのであれば、ライブハウスでもまた公演ができると。しかし、まだまだ道のりは長いといえます。関連法のためです。
弘大のライブハウスがなぜ一般飲食店として登録されているのか、気になるかもしれません。法によるものです。今ライブハウスを管轄している法は、1999年に制定されたものです。その前まではライブハウスでの公演は違法でした。1998年、ミュージシャンたちと店がライブハウス合法化運動を行って、翌年法が改正されました。でも、一般飲食店での公演を許可するという内容の中途半端な法でした。公演法上、公演会場として登録しようとしたら、公演の日数が年間90日以上、あるいは連続30日以上なければいけません。週末の2日間だけライブを行うことが多いライブハウスは、そんな条件を満たすことができません。だから一般飲食店として登録しています。チケットの販売だけでは足りない収益を、ドリンクの販売で補ったりしています。ビール1杯飲みながらライブを観るのも、この文化の魅力ですから。
この前はイ・ソラさんの公演がキャンセルされました。大衆音楽のコンサートはミュージカルやクラシック・コンサートとは異なり、「イベント」に分類されているということがその理由です。コロナの感染状況によってガイドラインがその都度変わり、私の場合も公演をキャンセルすべきかぎりぎりまで気を張っていたことがあります。いくら長い期間準備しても、ガイドラインが変われば、公演をキャンセルしなければなりません。ところがおかしな点は、同じ公演会場でも、ミュージカルやクラシック音楽の場合は公演を開催することができ、大衆音楽はできないということです。政府関係者たちが考える大衆音楽の公演とは、何なのでしょうか。芸術性のない、文化的価値のない、一種の騒ぎのようなものでしょうか。
文化にはさまざまな姿があります。さまざまな出発点があり、さまざまな成長があり、さまざまな用途とさまざまな結果があります。ものすごく迫力あるサウンドのK-POPを聴きたくなる時があれば、ある時はゆったりと口ずさむインディー・ミュージックが聴きたいこともあります(もちろんゆったりとしたK-POPもあり、迫力あるインディー・ミュージックもあります)。ソウルの乙支路には、ホテル水仙花というカフェ・バーがあります。ライブも時々行われますし、とても小さくてクールです。数多くのアーティストがその場所でグラビアを撮影しています(世間ではSHINeeが撮った写真が最も有名だと思います)。世の中にはメジャーからちょっと逸れた、不思議で面白く、小さいものが好きな人たちがいますよね。その人たちが妙で変で、かっこいい空間を作ると、噂になって、さらにおもしろい人たちが集まり、ライブも行われ、そうやって文化の幹が生まれます。その幹から独特な実が育って。文化はそんな風に巡り巡ると思っています。どちらか一方が優れているとか、より重要なのではありません。
この文章を読んでいる方々は、既に音楽と公演の大切さをよくわかっていらっしゃるだろうと思います。大切なものをより大切にしてください。コロナの感染者数が再び増加傾向にあるそうです。防疫を徹底して守ってコロナが終息し、私たちが味わっていた瞬間をもう一度取り戻すことができたらと思います。
読んでくださり、ありがとうございます。
2021年4月
オ・ジウン拝
文. オ・ジウン
エディター. カン・ミョンソク
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