*このレビューは映画『世界のジュイン』(原題)のネタバレが含まれています。『世界のジュイン』のユン・ガウン監督は、観客が映画に対する先入観なしに「ジュイン」の世界に旅立ってほしいと明かしています。まだ映画をご覧になっていない方は、鑑賞後にこの記事をじっくりお読みいただくことをお勧めします。

人生を生きていくということは、結局何かしらの傷跡を隠すための過程なのかもしれない。映画『世界のジュイン』は、活気にあふれているように見える17歳のジュイン(ソ・スビン)の家族が、実は何かを隠すために必死になっている様子を描く。ジュインは進路相談を受けている最中にぼんやりとリンゴをみつめていたが、担任の先生が好意でリンゴを渡すと、ふざけて呼吸困難の演技をしてごまかそうとする。しかし真実は、彼女が本当にリンゴが嫌いだということにあった。ジュインの母テソン(チャン・ヘジン)は、愛情を持って子供たちの世話をする保育園の園長だが、同時にタンブラーに酒を入れてしょっちゅう飲んでいるアルコール依存症の症状も見せる。ジュインの弟ヘイン(イ・ジェヒ)は、母と姉が家を空けるたびに常に何かをこっそり探ったり隠したりし、アトピー性皮膚疾患を患いながらも家族に隠れてお菓子を食べる。ヘインが普段からトリックで観客を騙して楽しませるマジックを練習しているのは偶然ではないだろう。ヘインが披露するマジックに喜んで拍手を送るジュインとテソンの姿は、和やかな家庭の典型のように見える。ジュインと母テソンは、ジュインの恋愛やスキンシップの進展について気兼ねなく話せ、ヘインは愛嬌たっぷりで人懐っこい弟だ。しかしその裏には、彼らが語らない何かが、何らかの傷跡がある。まるでテソンが断続的な腹痛を鎮痛剤で必死に隠すように。そしてヘインがマジックで消したかったメモが、結局足下に散らばっていたように。
映画の最初のシーンは、ジュインが彼女のボーイフレンド、チャヌ(キム・イェチャン)と休み時間に乗じて大胆にキスを交わす姿から始まる。彼女は異性の友だちともためらうことなく体をぶつけてふざけ合い、友だちと産婦人科に行った経験を話しながらケラケラと笑う。過去にどんなことがあったとしても、今のジュインの人生には活気があふれている。彼女にはそうする権利がある。だが、過去の傷跡がなかったかのように振る舞えるからといって、その傷跡が完全に消えるわけでもない。同じクラスの友だちスホ(キム・ジョンシク)が8年前の女児性的暴行事件の加害者出所反対の署名を集めようとした時、ジュインはスホが準備した署名文の「性的暴行は一生消せない深い傷を残し」という表現に異議を唱え、署名を拒否する。その過程でジュインは、自分が「性的暴行の被害者」であり、自分の人生はもう終わりだと思うのかという反論を吐き出すが、結局それを冗談のように言い換えてしまう。まるで先生にリンゴをもらいたくなかった瞬間に呼吸困難の演技をした時のように。要するにジュインがごまかすのは、生まれ持った彼女のバイタリティでもあるが、彼女ならではの生存方法でもある。それは寺でジュインに「すべて私のせいです、私の因果応報です」と祈れと言ってトラウマをほじくり返す祖母の言葉に、功徳を積んでくるとごまかして走り去る彼女の行動からも見てとれる。誰もが自分の経験した真実について声を上げたいと思うかもしれない。だが、それを隠し、何ごともなかったかのように生きていきたいと思うこともある。なぜなら「その」真実の主はまさに自分自身なのだから。
難しい点は、皆がそれぞれのやり方で真剣だということだ。スホは妹のヌリ(パク・ジユン)の面倒を見るのに一生懸命だ。妹の排便の過程を自ら処理し、妹の体に小さな傷跡ができただけでも、テソンの運営する保育園を自ら訪ねて抗議するほど過敏に反応する。彼が女児性的暴行事件の加害者が近所に引っ越してくることを知ったのも、 ヌリと一緒に歩く階段の上でだった。普段はジュインがふざけてぶつかったりでもしたらよく腹を立てるスホだが、署名をもらう時ばかりはジュインを説得するために最大限に努力し、最後には(ジュインがリンゴが嫌いだということを知らずに)リンゴジュースを持ってきて署名を頼む。スホがジュインと会話中に激昂した瞬間も、ジュインがもし妹のヌリが「恐ろしい性的暴行」を受けたらどうなるかと聞いた時だった。ジュインの意図は、スホが性的暴行を「恐ろしい」行為と断定し続けることが被害者を尊重するものではないという事実を指摘しようとしたものだった。だが、妹を守るために常に敏感にならざるを得ないスホは、被害者の立場ではなく、リスクの可能性に意識が集中してしまう。結局スホは我慢できず、ジュインに対して「お前こそその恐ろしい性的暴行を受けたらどうなると思う?」と聞き、二人の対立は頂点に達する。ジュインにとってそのことは可能性ではなく、すでに経験した現実であり、傷跡だったのだから。ジュインは初めて何もないふりをして笑い飛ばすことができず、極度に興奮してスホに飛びかかる。スホもまたジュインと同じくらい真剣だった。ただある者にとってはその出来事が傷跡であり、今もなおその出来事を生き抜いている最中だということを考えることができなかったのだ。そしてその差は大きい。
「私の人生はまだ終わっていない。だから軽々しく話さないで。お願い」。自分との対立を学校暴力対策審議委員会で解決する代わりに署名を要求するスホに、ジュインが自分は幼い頃に性的暴行を経験した被害者だという事実を明かすのだが、この台詞を言う時、『世界のジュイン』の上映時間は1時間を少し超えたところだ。『世界のジュイン』は1時間59分の映画だ。つまり『世界のジュイン』は主人公が抱えていた真実がついに明らかになる瞬間をクライマックスとしていない。残りの時間の中で映画が注目するのは、ジュインが耐えてきた真実の重さが周りの人たちに伝わる過程だ。「ジュイン。僕はただ、君のことがあまりに難しい。ごめん」。チャヌとジュインの関係は時が経つにつれ深まるが、チャヌは結局ジュインのトラウマに耐えきれず、彼女のもとを去ってしまう。チャヌの手が触れる範囲が徐々に広がっても、予想以上にスキンシップが深まると、チャヌを激しく突き放してしまうジュインの習慣はたやすく変わらない。ジュインがそのような自分の行動はトラウマのためだと告白したとしても、チャヌにとってそれは「難しい」。ジュインの友人たちはジュインが性的暴行の被害者だということを知らなかった過去のほうが良かったと打ち明ける。それどころか、ジュインのように努力して「一生懸命な人生」を送るくらいなら、そんなことは経験したくないと、彼女の苦痛を暗に対象化したりもする。ジュインにアダルト漫画を自ら描いて見せながら冗談を言い合うほど仲の良かった友だちのユラ(カン・チェユン)は、ジュインと目を合わせることすら避けるほど心理的な苦痛を負う。そしてジュインに言う。「ねえ、あんた何でそんなに平気なの? あんた本当に平気なの?」と。ジュインを大切に思うほど、友人たちの不器用さも増す。すでに傷跡を生きてきたジュインの日常は変わることはないが、ジュインを見つめる視線は以前と同じではいられない。ジュインは変わっていないが、周りが変わった。「みんなを困らせて混乱させて楽しい?」、「何が本当のあんたなの? あんたに本当なんてあるの?」。ジュインが性的暴行の被害者だという事実を冗談のように吐き出し、否定し、また認めるまでの過程で、彼女を追及するメモは、性的暴行の被害者に向けた世間の視線を代弁しているようにも見える。皮肉にも、世の中は真実を求めている。一日一日を生き抜いている者に対して。
だとしたら、「ジュインの世界」はどうやって守ることができるのだろうか。スホとジュインの対立からもわかるように、真実性が当事者を理解する魔法にはなれない。ただこの映画が、ジュインの世界を見つめる視線が、多少の手引きとなるかもしれない。『世界のジュイン』でジュインが参加する性的暴行被害者自助グループの姿は、特に説明もなく自然に描写されている。彼らは自然に登場し、清掃のボランティア活動をして活力を得て、会話の中で自然に「弁護士」に言及する。いつもジュインに親しく接していたミド(コ・ミンシ)が、ジュインが自助グループに相談なしにボーイフレンドのチャヌを連れてきた時ばかりは過剰に興奮する姿から、観客はこのグループに当事者性がどうしても重要となる境界線があることを推察する。つまりこの映画では、性的暴行が単に素材として消費されるのではなく、当事者たちの人生の一部として描かれている。そしてカメラは新たな場所を映す転換点ごとにエクストリーム・ロング・ショットで学校のバスケットボールコート、マンションの駐車場、ゴミが散らばっている川辺を映し、遠い視線を維持する。まるで何事もたやすく判断しないというように。ジュインがスホに自分が「性的暴行の被害者」だと叫んだ後、冗談のように流してしまった日の夜、カラオケで楽しそうに体を揺らす瞬間や、廊下に立っている学生たちを映す瞬間にも、クローズアップ・ショットは使われない。そしてその視線は、洗車場に入った車内でのみ長い恨みと怒りを吐き出せるジュインの涙を黙って受け止め、ジュインに水筒を渡しながら洗車をもう一回やるかと聞くテソンの姿とも似ている。誰も他人の世界を軽々しく判断することはできない。軽々しくその悲しみが、傷がわかると決めつけることもできない。しかし、ただそばに寄り添い、見守ることはできる。
毎回自分は痛くないと言い張るくせのあるスホの妹ヌリに対して、ジュインが繰り返し傷跡を残しているという事実は重要だ。その傷跡はスホに、ヌリがテソンの保育園で虐待を受けているかもしれないという誤解を起こさせる。そしてテソンが繰り返されるスホの要請に、保育園の防犯カメラで確認したジュインとヌリの姿には、音声が聞こえない中でも明らかに伝わる緊張感が流れる。防犯カメラを確認しながら、腹痛に悩まされていたテソンは、ヌリの体のあちこちを強くつねるジュインの口から流れ出る言葉を、ヌリの口から代わりに聞くことになる。「これでも痛くないの? 痛かったら痛いって言わなきゃ。嘘ついたらもっと痛いよ」と。ジュインの言葉を真似るヌリの言葉を聞いて、彼女を抱きしめながら「痛い」と告白するテソンの姿は、自らの苦痛から目を背けずについに受け入れ、治すことを決心する瞬間でもある。その後テソンがついに胆嚢の手術を受けるという事実は象徴的だ。そしてジュインの家族は、時が経つにつれ自分たちを苦しめていた傷跡から逃避するのではなく、解決を選ぶ。自分を長い間苦しめていた傷を、ごまかして冗談を言って覆い隠してきたジュインは、ついに声を上げることを決心し、ヌリにも痛みを認めるよう求める。アルコールで傷から逃れてきたテソンは、ついに酒を流し台に捨て、加害者の弟という罪悪感のため問題から逃げているジュインの父ギドン(キム・ソクフン)に家に戻ってくるように促す。ヘインはジュインに持続的に手紙を送ってくる加害者の伯父に、手紙を送らないでという手紙を書く。「私の人生はまだ終わっていない」というジュインの言葉通り、ある傷跡が人生全体を決めるわけではない。しかし、痛みを治療せずやり過ごすこともまた、自らを尊重する方法ではないだろう。過去の傷跡に埋もれることも、だからといって目を背けることもせず、そのどこかの境界線に、もしかすると私たちは皆「世界の主人」(「主人」は韓国語の発音で「ジュイン」)として立つことができるのではないだろうか。つまり『世界のジュイン』は、私たちがどうやって過去の傷跡と向き合い、自らの尊厳を守れるかを問う。
映画の中盤でミドと会話する時、「私だけが難しくてうまくいかないもの」は「愛」だと言っていたジュインは、将来の希望に「愛」と書く。テソンになぜ毎回恋愛がひと月も続かないのかと嘆かれ、自分のことを心から好きでいてくれたチャヌと別れることになったが、今やジュインは自らを「ダイナミックな恋愛に才能がある」と定義するに至る。過去の傷跡によって誰かに心を開くことが容易ではなかったジュインは、今やそんな自分の姿を肯定し、真の愛を夢見ることができるようになった。そしてジュインを疑っていたメモは、謝罪と和解の言葉に変わる。そしてただ真実が知りたかったと言っていた、性別も関係なくクラスメイトたちの声を借りて読み上げられるその手紙の主は言う。「私はもう黙ってはいられなくなった」。ミドが法廷で性的暴行を行った実の父の機嫌を取るために送った親しげなメッセージから、生活費のために小遣いを要求した行動まですべて追及されるように、真実を求める世間の視線は簡単には変わらないだろう。ジュインの友人たちが経験する混乱のように、心ある人たちも当事者でなければ過ちを冒すことも、傷つけることもある。しかし、誰かが経験してきた傷跡についてついに声を上げたいと思ったら、その世界が次第に広がれるよう、そばでその過程を見守ってあげることはできる。ジュインが小さな車の中で真の自分の世界に出合ったかのように絶叫し思いを吐き出す時、テソンがそのそばで黙って耐えたように。そうするうちに声を上げるすべての人々が「世界の主人」としてまっすぐに立てるようになるのではないだろうか。あなたも、私も。それぞれの傷跡を持って生きていく私たち皆が。
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