
『GO Nine or GO Big』
チョン・ダナ:「じゃあ、全部で9本撮れるってことだね?」 ATEEZのWOOYOUNGとSANが、9回の挑戦の間に再生回数50万回を突破できなければ「終了(쫑)」という意味から始まったYouTubeチャンネル『GO Nine or GO Big』(韓国語では『9트쫑(9トライでダメなら終了)』。チャンネル名からして再生回数という明確な目標を掲げているが、この企画が2人に与えるミッションは壮大なものではない。「カーナビなしで乙旺里(ウルワンリ)まで行く」のように、動画のタイトルはその日にすることをシンプルに書いただけで、サムネイルも動画のワンシーンと短いフレーズだけだ。
「両家顔合わせ門前払い顔、顔合わせに挑戦」では、WOOYOUNGとSANが、顔も知らない女性3人の両親との顔合わせの場にいきなり放り込まれる。「新婚旅行について行ってもいいかしら?」という義母役の出演者による意地悪な質問にも、SANは「実に素晴らしい選択です」と切り返すなど、初対面の大人相手にも臆することなく冗談を飛ばし、歌を歌う。一方、2人きりになるとまた別の顔が現れる。「カーナビなしで乙旺里へ行く」では、韓国全域の大きな地図を与えられ、1人が運転し、もう1人が「助手席ナビ」になって乙旺里を目指す。道路の表示が見えないWOOYOUNGがSANに文字が見えるようズームしてほしいと言うと、SANは両手でカメラの形を作って目の前に持っていく。長年の付き合いだからこそ可能ないたずらや気兼ねのないやり取りが、2人の間には自然に行き交う。しかし、置かれた状況によって浮かび上がるのは彼らの茶目っ気だけではない。「事務所代表の車を盗んで車中泊」でSANは、エンタメ業界で働く人々から寄せられた悩みに答えながら、「キャリアが6年を越えると、厳しいことを言ってくれる人があまりいなくなる」と話し、それに対してWOOYOUNGはこう答える。「でも、うちのチームの良いところのひとつは、メンバー同士でそれをやってることだよ」。 他人の悩みから始まった話は、自然と6年以上チームとして活動してきたATEEZ自身の経験へとつながり、再び2人の関係やこれまでの時間へと流れていく。
すでに再生回数50万回を軽く超えた『GO Nine or GO Big』は、チャンネル名に掲げた目標を早々に達成した。しかし彼らの「トライ」が重なるほど、「俺たちは棺桶に入るまで友達」という意味のタトゥーをお揃いで入れるほど付き合いが長い2人の新たな一面が、次々と現れていく。「一緒にいれば何をしてもコンテンツになる」というSANの言葉のように、『GO Nine or GO Big』が9回のトライを通して試そうとしているのは、再生回数ではなく、WOOYOUNGとSANというコンビが生み出せる物語の可能性なのかもしれない。

『オーク・ストリートの異変』
ナム・ソヌ(映画専門誌『シネ21』記者):子どもの頃、家族と映画館に行って見るものといえばブロックバスター映画だった。今でも覚えている。『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(2002)を見てから祖母の家に寄り、叔父が持っていた原作小説を借りて帰った週末。『グエムル-漢江の怪物-』(2006)のせいで、父とサイクリングに行っていた漢江公園からしばらく足が遠のいた夏休み。『アバター』(2009)の轟音をものともせず、両親やきょうだいの隣でぐっすり眠ってしまった夜のことを。二度と再現できないあの頃の思い出を、今になって愛おしく思い返してみて感じること。あの頃、映画はただの口実だった。ちょっとした旅行であり、手軽な教養だった。誰かにとっての子育てと、誰かにとっての親孝行を一度に済ませられる文化商品、と言ってもいいかもしれない。だからこそ、なおさらブロックバスターが必要だった。多くの人を手っ取り早く満足させる、直感的に楽しめる存在としてのブロックバスターが。
デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督が1982年を舞台に描いた『オーク・ストリートの異変』は、そんなファミリー向けジャンルの性質を知っている。だからこそ、それを意地悪く料理してみせる。職を失った一家の大黒柱、離婚を予感する主婦、カール・セーガンに憧れる娘、近所の少女に気がある息子。そんな4人家族という構成からして、ある種の典型を感じさせる。そうでなくても自分の問題だけで手いっぱいな彼らの住む町に、なんと恐竜まで姿を現し、物語はそこからお馴染みのSFパニック映画のステップを踏み始めるが、ときおり足を滑らせる。怪獣たちは恐ろしい一面を見せたかと思えば滑稽になり、攻撃体勢を取ったかと思えば繁殖行動まで始める。主人公たちもまた、助け合いながらも相手にうんざりし、固く団結したかと思えば、再び散り散りになってしまう。もう我慢の限界だと言わんばかりに、どこの家もそうであるように。
『オーク・ストリートの異変』は、それでもスクリーンの前に仲良く座った家族連れの客の顔色をうかがうような結末を迎え、個人的には戸惑ったが、まあいいだろう。考えれば考えるほど、このフィナーレにはメタフィクションの香りが漂う。危険でいっぱいの大騒動が繰り広げられるブロックバスターを、家族で見るということへの省察が読み取れる。最後の瞬間になって気づく家族の大切さ、といった意味ではない。大切なのは映画館で、その中を照らす想像力だ。非日常的な脅威に夢中になることで日常の不和を忘れられる場所とは、なんと貴重なものだろう。オーク・ストリートの家族にも、それと似たような幸運が訪れたのかもしれない。そんな楽観がいつまで続くかは分からないが、それでもいい。映画というものは2、3時間もすれば終わってしまうものだが、繰り返し見ることもできるのだから。

Erykah Badu & The Alchemist - 『Before The World Blows』
カン・イルグォン(音楽評論家): 世界がおかしな方向へ進んでいるように見えるとき、人はたいてい大きな声を上げる。より大きな声で語り、より強いメッセージを投げかけ、何かを証明しようとする。しかし、エリカ・バドゥ(Erykah Badu)とアルケミスト(The Alchemist)は、正反対の選択をした。コラボレーションアルバム『Before The World Blows』でかれらは、世界の喧騒から一歩遠ざかり、音楽が持つゆったりとした呼吸を追っていく。
ソウル、ブルース、ジャズ、ファンク、ヒップホップが自然に浸透し、混ざり合う中で、全体が前衛的でサイケデリック、そして実験的なアプローチによって完成した。その間をバドゥの神秘的な声が漂う。時には、曲の境界までぼやけて感じられる。ところが、その緩やかさの中からは、不思議なほどはっきりとした緊張が生まれる。今にも何かが起こりそうな予感がするのに、音楽は最後まで速度を上げようとしない。
ネオソウルのアイコンと、ビートの錬金術師。2人のコラボレーションは、バドゥがモブ・ディープ(Mobb Deep)の「The Realest」のビートに乗せてラップをしてみたいと語ったことから始まった。「The Realest」はアルケミストが作った楽曲だ。この曲をきっかけに出会った2人は、創作における共通のアプローチを見出し、それが楽曲のコラボレーションにつながった。
両者の制作スタイルは、典型的なコラボレーションの形から外れている。単にアルケミストが作ったビートその上にバドゥがボーカルを重ねるのではなく、お互いの音楽を自分自身の言語で読み直す試みだと言える。バドゥはアルケミストのヒップホップを自らの世界へ引き入れ、アルケミストはバドゥのソウルを自身のサンプリング美学の中に配置した。互いの音楽を行き来するうちに、楽曲の形も絶えず変化を遂げる。例えばバドゥは、アルケミストから渡されたビートを一度細かく解体し、そこにカリンバやコード、ドラムを加えて、自らの感覚で再び組み立て直した。
世界が崩れそうなほど騒々しいこの時代にも、かれらは大げさな宣言を打ち出さなかった。すでに知っている音楽を今いちど取り出し、細かく分けて、別の方法でつなぎ合わせる。そうすることで、見慣れたものの間から今この時代を見つめる新たな視線を生み出した。世界が崩れてしまう前に私たちができることは、思ったより単純なのかもしれない。よい音楽を作り、それを一緒に聴くこと。
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