『ジミー・キンメル・ライブ!(Jimmy Kimmel Live!)』は2023年から放送されているアメリカの有名な深夜トークショーだ。この番組にはユニークな夏の恒例行事がある。司会のジミー・キンメルが休暇を取る間、俳優、コメディアン、ミュージシャンなどの有名人が交代で「ゲストホスト」として司会者席に座るのだ。ゲストホストは、オープニングトークからインタビューまで、ジミー・キンメルの役割をそのまま引き受ける。今年は7月6日から8月27日までの24エピソードをゲストホストが担当した。
そのうち最後の4エピソード、8月24日から27日までの司会はカントリー歌手のジェリー・ロールだった。彼の出演のニュースは意外だという反応を呼んだ。深夜のトークショーのオープニングは、その日の時事ニュースをネタにジョークを飛ばす場だ。一方、ジェリー・ロールはキリスト教を信仰していることを公に語り、狩猟や田舎暮らしを楽しむカントリースターだ。多くの人は、彼をそのジャンルの典型的なライフスタイルを体現する人物として受け止めてきた。

しかし、彼のジョークは一部のカントリーファンを驚かせた。反応の焦点は、おもしろい、おもしろくないということではなかった。「彼は私たち側の人ではなかったのか」というものに近かった。結局、彼は最後の放送で18分に及ぶソロトークで応えた。先週までは皆が自分のことをある一方の陣営の人間だと見なしていたが、今は正反対の陣営の人間だと思っていると冗談めかして語り、政治的立場を明らかにしないようあれほど努力したのに、かえってその努力そのものが一つの立場になってしまったと語った。そのトークが話題になった理由は、単にポピュラーミュージシャンが自身の政治的立場を説明しようと努めたからだけではない。この騒動が、忘れられていた問いを呼び起こしたからだ。「本物」のカントリー歌手とは何かという問いを。
カントリーミュージックには、南部、田舎、労働者階級といった背景が真正性を裏付けていると昔から信じられている。その延長線上で、小都市、ピックアップトラック、狩猟といった現代的な言葉は、風景描写を超えて、敵・味方を識別する印のように読み取られる。その反対側には、もちろん大都市やエリート文化がある。それが、ジェリー・ロールの一週間が話題を集めた理由だ。人々は彼の出身やライフスタイルを見て、彼の考えまですでにわかっていると思っていたのだ。

しかし、ジェリー・ロールの経歴を振り返ってみると、彼はカントリーミュージックの典型的なイメージと一致しながらも、同時にそこから外れている。彼の曲を支えているのは、10代の頃から繰り返されてきた収監や依存症、そして再起の経験だ。彼は音楽を通して絶えず二度目のチャンスを強調している。彼は2025年12月、テネシー州知事から恩赦を受け、2026年2月のグラミー賞では最優秀コンテンポラリー・カントリー・アルバム部門を受賞した。彼はラッパーとしてキャリアをスタートさせ、カントリーに転向したアーティストだ。ジャンルの外から入ってきた彼が、仲間から認められるカントリーアーティストとして受け入れられた課程は、真正性が出身よりも経歴と信頼から生まれることを証明している。
そのようにカントリーの文化的コードは、生まれつき、自動的に与えられたものではない。社会学者のリチャード・ピーターソンは、音楽業界がカントリーミュージックを商品化する課程で、ヒルビリーやカウボーイのイメージを形成してきたと分析している。言い換えれば、真正性は歌や歌手に内在するものではなく、聴衆との関係の中で合意されたものでもある。ところが、ジェリー・ロールは現在最も普遍的な真正性の基準の外側へと向かっている。彼は真正性の根拠を、文化的記号から人生の経歴へと移したのだ。それはジェリー・ロール一人のことではない。この数年の間に似たような事例がもう一つある。

2023年8月、アメリカのバージニア州のある無名の歌手が森の中でギターを手に歌う素朴な動画が広まり始めた。オリヴァー・アンソニーの「Rich Men North of Richmond」だった。工場労働者出身の彼は、低賃金や長時間労働、遠い都会で下された決定が自分の人生に影響を及ぼす状況に対する疲れを吐露していた。この曲はビルボードHOT100チャートに1位で初ランクインした。同チャートに初めて登場したアーティストが1位を獲得したのは、これが初めての事例だ。興味深いのはそのあとだ。曲が人気を得ると、あちこちの陣営がこの歌を自分たちの話として解釈し、自分の主張に利用しようとした。これに対しオリヴァー・アンソニーが自ら動画を投稿し、両サイドに対し一線を画した。彼はこの曲が特定の政治派閥ではなく、両方の政治家たちに向けたものだと明かした。自身の政治的立場については「真ん中」だと語っている。
人々がオリヴァー・アンソニーに耳を傾けたのは、彼の出身や職業からだけではなかった。歌から滲み出る疲れが、リアルな生活から生まれたもののように聞こえたからだ。そして、その真正性は、誰かがこの歌を自分の陣営の旗印として使おうとした瞬間、かえって揺らぐ危険にさらされた。オリヴァー・アンソニーがその解釈を拒否したのは、政治的な選択というより、自分の歌が本来いるべき場所を守ろうとする試みに近かった。そして3年後、ジェリー・ロールが同じような立場に立った。
ジェリー・ロールの最後のトークに対する最も複雑な反応は、カントリーの仲間たちから発せられた。ジェリー・ロールと異なる考えを持つとされるジョン・リッチは、ジェリー・ロールがファンを失うリスクをわかった上で立場を明らかにしたものであり、少なくともジェリー・ロールは自分が語っている通りの人間のようだと評した。同意ではなく、認めているのだ。オリヴァー・アンソニーとジェリー・ロールの間には共通点がある。二人ともアメリカの田舎のイメージと結びついているが、彼らが本当に受け入れられた理由はそのイメージのためではなかった。労働と苦難、転落と再起という具体的な経験が歌と結びついていたからだ。そして二人とも、自分の歌や言葉が誰かの旗印になることを警戒していた。
今日、音楽や言動はアルゴリズムに乗って数分で広まる。全体の文脈よりも強烈なハイライトがまず届き、人々は歌を聴く前からその歌手がどちら側に立っているのかを問う。そのような環境で、田舎と都会という単純な分類は最も手っ取り早い解釈の手段となる。しかし、その分類では、オリヴァー・アンソニーの森の中の動画も、ジェリー・ロールのジョークも正しく読み解くことはできない。
ジェリー・ロールが『ジミー・キンメル・ライブ!』の司会を務めていたその週にこの世を去ったドリー・パートンは、二つの視点が統合し得ることを示した人物だった。ジェリー・ロールは放送中にドリー・パートンを追悼し、彼女について「誰もが好きだった最後のアメリカ人」かもしれないと語った。ドリー・パートンはステージ上で過剰なほど華やかなペルソナを披露しながらも、それを自らジョークのネタにするなど、率直で信頼できるアーティストとして受け入れられていた。要するに、真正性とは出生証明書でもファッションでもない。自分の人生から生まれた言葉を語り、その言葉を他の人の目的のために差し出さない姿勢から生まれるのだ。結局、カントリーがより広い聴衆に届く道は、より良い曲を書くことと同じくらい、真正性の根拠をどこに置くかを模索することにあるのかもしれない。
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