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文. キム・ユンハ(ポピュラー音楽評論家)
写真. SEOTAIJI COMPANY提供

ソ・テジが固有名詞として消費されていない世の中は、今更のようだが馴染めない。おそらくソ・テジが「近頃の若者たち」と同一視されていた、別名「文化大統領」と呼ばれていた時代を生きてきた人であれば誰でもそうだろう。1992年3月23日世に出たソ・テジワアイドゥル(Seotaiji and Boys)の1stアルバム『I Know』は、単なる大衆歌謡アルバム以上の価値だった。ジャンルがどうの類似性がどうのという話は、時代と世代が一遍に混ざった巨大な溶鉱炉のようなアルバムが放つ熱気の前に力なく倒れた。年上世代にはわからない音楽、自分たちだけが共感できる歌詞、高校を自主退学しヘヴィーメタル・バンド、シナウィのベースとして最初の音楽活動をスタートした反抗的な経歴まで、彼をとりまくすべてのことが過去と現在の間に一線を画した。

 

1990年代、「ソ・テジ」という3文字は単なるミュージシャンの名前ではなく、一世代と時代を代表するラベルだった。だが、各種議論の中心に彼の名前を置こうとする物書きたちの欲望と、K-POPファンダムの元祖とよく話題にされるファンたちの熱い歓声に、肝心の彼の音楽についての話はしばしばかき消された。来る31日に開催される『2022 Weverse Con [New Era]』で、ソ・テジのトリビュート・ステージが予告された今、ソ・テジワアイドゥルのグループ名義で4枚、ソ・テジの名前で5枚のアルバムの中から、ソ・テジの音楽の情緒とスタイルを最もよく知ることができる6曲を準備した。


ソ・テジワアイドゥル – 「Anyhow Song」『Seotaiji and BoysⅡ』(1993)

「Anyhow Song」は文字通り「騒乱」だった。1stアルバムの「I Know」が「こんな子たちがいる」という予告状だったとすれば、「Anyhow Song」は「そんな子たちが世の中を鎮めに来た」という堂々たる挑戦状だった。「ラップ・ダンス」という新たな文化に接することになったが、それでもまだ既存の歌謡文法で最小限の理解はできた「I Know」に比べて、「Anyhow Song」は初めから躊躇いがなかった。重く入るギターのリフとスクラッチ、キム・ジョンソの気持ちの良いシャウトに意識が混迷している間に、何と言っているのか到底一度では聞き取れない独特なフロウのラップが、休む間もなく降り注ぐ。以降各種ジャンルの音楽を迷うことなく行き来した彼の音楽の旅路を考えると、一見当然のように感じられるが、当時でも伝統楽器のテピョンソ(細いラッパのような楽器)の登場に、曲の雰囲気に比べてまったく異質に聞こえるソ・テジの呆気ないほどにすっきりとしたボーカル、ステージのハイライトを飾るヒップホップ・ダンスまで、それこそ「新たな次元の扉が開いた」という言葉がオーバーではない一曲だった。最近流行りの言葉で言うなら、「僕たちはこれをK-POPと呼ぶことにしました」だろうか。

 

ソ・テジワアイドゥル – 「Come Back Home」『Seotaiji and BoysⅣ』(1995)

今になって考えてみると、ソ・テジの音楽が1990年代にもたらした大きな反響は、彼の音楽を聴く人だけでなく、音楽を作るソ・テジという個人にとっても決して簡単なものではない、「激動」ではなかっただろうかと思う。デビュー作で作られた「世代」を代弁する歌手というイメージは、アルバムを経るにつれ、韓国の教育の現実に対する批判(「Classroom Idea」)、祖国統一に対する願い(「Dreaming of Bal-Hae」)などのテーマで具体的な形を形成していった。徐々に構築された「時代」と共にある歌手というイメージは、4枚目のアルバムのタイトル曲「Come Back Home」で頂点に達した。歌はヒットし、「歌を聴いて、家出をしていた青少年が家に戻ってきた」という心温まる美談が伝えられたりもしたが、彼の音楽に「音楽」より「社会」というフレームが大きく掛けられ始めたのもこの頃だった。また「Come Back Home」は、今まで伝説のように伝えられてきた彼の社会的影響力とともに、その時代を代表するスタイルアイコンだったソ・テジの影響力も頂点に至った時期だった。アルバムごとに変わる音楽と同じぐらい、さまざまなファッションスタイルを披露した彼は、4枚目のアルバムの活動期間、当時韓国に紹介されたばかりだったスノーボード・ファッションをヒップホップスタイルとして着こなし、話題を集めたりもした。彼によってスノーボード文化が韓国内に速いスピードで定着したと言っても過言ではない。

ソ・テジワアイドゥル – 「My Everything」『Seotaiji and Boys』(1992)

ソ・テジの音楽の神髄をひと言で言い表すのはなかなか難しい。特にジャンル的に。グループからソロの時期まで何しろさまざまなジャンルを、まるでコレクションするかのように聴かせてきた部類のミュージシャンだったからだ。だとすれば、情緒的な部分でアプローチしてみたらどうだろう。多くの人たちが見逃しているソ・テジの本当の音楽的才能は、情緒漂う特有の感受性と、生きたメロディ感覚に由来する。時が経っても相変わらず愛されているソ・テジ印のバラード「To You」、グループの最後を予感させた「Good Bye」の前に、個人的な好みから「My Everything」を推す。歌が進む間、細い声で歌っていたソ・テジの声のバックで「アイドゥル(Boys)」のラップが終わった後、「ギター!」と叫ぶ声とともにギター・ソロが滝の水のようにどっと流れ出る。そのように劇的な演出が与えるカタルシスは、今のK-POPまでつながる、時として「過剰」と言われる韓国大衆音楽のある特徴を集約して見せる瞬間でもある。ソ・テジという名前を覆っていた華やかな幕を取り払ってしまえば、結局そういうものが一番最後に残る。

ソ・テジワアイドゥル – 「Our Own Memories」『Seotaiji and BoysⅡ』(1993)

ソ・テジは曲を作る人でもあるが、その曲を自ら歌う人でもある。良いシンガーソングライターの資質は、自身の声が持つ長所、短所をしっかりと把握していることであり、ソ・テジはその点においては確かな考えを持っている。前にメロディ感覚についての話に触れたが、ソ・テジは自分の声が最も魅力的に聞こえるメロディと雰囲気をとても敏感に把握している作曲家だった。平均的な男性ボーカルに比べて、高くきれいで澄んだトーンを持つソ・テジの声は(自身の野望とは関係なく)透明なメロディと合わさる時、最も際立った。彼とは切り離して考えられない、ファンたちとともにするきらめく瞬間をぎゅっと詰め込んだ「Our Own Memories」は、だからこそより輝く。


ソ・テジ – 「Take Five」『Seo Tai Ji』(1998)

ソ・テジワアイドゥルが解散した後に続いたソ・テジのソロ活動は、ひと言で言って「ソ・テジがしたいことをすべてしよう」だった。グループ時代にも世の中と断絶した環境で音楽制作をすることで有名だった彼は、ソロ活動を始めてからはより積極的に自分だけの世界に深く入り込んだ。ソロ1枚目であり、ソ・テジの5枚目とも呼ばれるアルバムは、タイトルから曲名まで特に変わったタイトルもなく、ただ「Seo Tai Ji」という名前と、「Take」と数字で分かれたトラックのみを収録している。発売当時タイトル曲は、TVという単語を中心にした、すべて抽象的な歌詞と粘っこいムードがリードする「Take Two」だったが、直観的なスタンスで「自由」を歌った「Take Five」の方がもっと反響が良かった。ソ・テジワアイドゥル解散後、彼が得ようとしていた時間に対する率直な気持ちを推し量ることができる曲だ。

 

ソ・テジ – 「Moai」『Seotaiji 8th Atomos』(2009)

やりたいことはやって、アルバム発売の間隔が少しずつ空きはしても、「Ultramania」(2000)、「Robot」(2004)などを発表し、着実に活動していったソ・テジにも悩みはあった。「Moai」は、グループ時代よりマニアックになった音楽と活動方式で、大衆と次第に遠ざかっていた彼が、いろいろな意味で再び世の中との遭遇を試みた歌だ。携帯電話のCMに出演し、「ところでおじさん、誰ですか」という、当時子役俳優だったシム・ウンギョンに悪気なくバカにされるシーンを通して、彼が持っていた重い存在感のイメージを、むしろ軽くウィットのある感じで崩した彼の姿は、この曲「Moa」でもそのままに表現されている。強迫的に刻むビートと、自由を歌う時最も幸せに聞こえるソ・テジの声の調和が絶妙な感性を伝える曲でもある。