アヴリル・ラヴィーンがニューアルバム『Love Sux』で帰ってきた。2022年は彼女がカムバックするのにこの上なく良い年だ。彼女のデビューアルバムが出て20周年でもあるが、アヴリル・ラヴィーンに代表されるポップ・パンクというジャンルが今再び流行しているからでもある。
ポップ・パンクがいきなりまた戻ってきた理由は何だろうか。実はポップ・パンクだけでなく、2000年代のポップ・カルチャー全般が最近になって再度全盛期を迎えている。ここ数年の間SNSを通して、20世紀ポップ・カルチャーが急速に消費されてきたことを覚えているだろう。多くの人々がこの流行を牽引してきた主人公に、ショートムービー・プラットフォームTikTokの若いユーザーたちを挙げる。「レトロ」というキーワードで、1970年代から1990年代まで時代を選ばず、さまざまなポップカルチャー・ソース、例えばファッション、音楽、舞台演出などが流行した。今Z世代の過去「ディギング」は2000年代に突入している。自分たちが幼い子どもだった頃であり、少し年の差がある年上の兄弟たちが青少年期を過ごした時期でもある。2000年代に10代文化の当事者だった人たちもまた、今は購買力のある30代になり、折しもファッションの流行サイクルだという20年もちょうど巡ってきたところだ。2010年代末に人気を集めたエモラップ(Emo-rap)がエモポップ・パンクの影響を受けたことも、ある意味大きな絵の中での積み上げだった。単純なコード・ワークと直接的な歌詞、鮮明なメロディ、粗いディストーション・ギターと速い生ドラムに代表されるポップ・パンクは、最近まで流行していたトラップのようなジャンルとはまた異なる味の刺激と楽しさを与えてくれる。コロナのパンデミックを経験し、重苦しくなった心をすっきりさせてくれる効果もあるだろう。したがって2022年のポップ・パンクのリバイバルは、いくつもの要素がちょうど良いタイミングでぴったり合った結果だと見ることができる。今年の10月には、ラスベガスで『When We Were Young』という名前のフェスティバルも予告されている。ラインナップにはアヴリル・ラヴィーンをはじめ、マイ・ケミカル・ロマンス、パラモア、ジミー・イート・ワールドなど、その当時人気を博したグループの名前がずらりと並ぶ。
飾り気のないギターのイントロと、遠くから低く聞こえる「Life’s like this」という歌詞で始まる彼女のデビューシングル「Complicated」は、20年が過ぎた今も、その頃青少年期を過ごした人たちの心を一挙に揺さぶる。楽しいギターとドラム、「He was a boy, she was a girl」で始まる「Sk8er Boi」も同じだ。これらの曲が収録されている2002年のデビューアルバム『Let Go』で、17歳のカナダ出身のシンガーソングライター、アヴリル・ラヴィーンはすぐさまティーンエイジャーたちから脚光を浴びるロックスターとなった。ダブダブのカーゴパンツ、平らなソールのスケボー・シューズと、タンクトップの上にラフに巻いたネクタイ、そして自らギターを弾きながら歌っていた彼女の影響で、2000年代の10代の少年少女たちの間ではチェッカーボード柄のリストバンドなどのアイテムや、エレメント、クイックシルバーなどのボードスポーツ・ブランドが広く流行した。蛇足だが、彼女はもともとカントリー・アイドルとしてデビューすることが企画されていたという。カナダからアメリカにやって来て、歌手デビューを準備している間に、アヴリルの音楽の嗜好がロックバンド・サウンドへと変わっていき、レーベルと揉めたが、逆にそこに新たなチャンスを見いだしたプロデューサー、L.A.リードが電撃的にロックンロール・コンセプトを支持して、私たちが知っているシンガーソングライター、アヴリル・ラヴィーンが誕生した。万が一最初の企画通りにデビューしていたら、リアン・ライムスやテイラー・スウィフトのような歌手になっていたかもしれない。『Let Go』で彼女は2003年グラミー賞5部門にノミネートされた。このアルバムは、現在までアメリカでは700万枚、全世界では1,600万枚を超える売上を上げている。
メディアは彼女に、当時の他の女性ティーン・ポップアイドルに対するアンチテーゼとしてスポットを当てた。1999年にデビューしたブリトニー・スピアーズ、そして彼女と似たような位置づけでデビューしたクリスティーナ・アギレラなどは、明らかに多くの青少年ファンたちの支持を受けていた。同年代の若い女性が、メディアを渡り歩き、気持ちよく踊り歌う姿を応援していたという点で、1990年代イギリスでスパイス・ガールズを応援していた女性青少年ファンダムと似ていた。だが当時のアメリカのポップス市場は、産業自体の資本とパワーが強力になり、アーティストを業界人の好み通りに構成しようとする傾向が大きくなっていた。デビュー当初から少なからず性的対象化の意味を内包していたプロデューシングは、時が経てば経つほどさらに色濃くなり、それに疲れた10代ファンたちは、共感できる別のスタイルの女性スターを渇望した。クールなスケートボードやバンド文化のビジュアルを前面に掲げたボーイッシュなイメージのアヴリル・ラヴィーンは、彼女たちのニーズにぴったり合った、別のタイプの「アイドル」だった。インタビュアーたちは、アヴリル・ラヴィーンから他のティーン・ポップスターを非難するコメントを引き出そうと努力したが、アヴリル・ラヴィーンはそのような試みを嫌った。特にアンチ・ブリトニー(Anti-Britney)として彼女にスポットを当てようとするインタビュアーに、「彼女も人。ブリトニーのことは放っておいて(She’s also a human being. Leave Britney alone)」と言ったことは、後に「Leave Britney alone」という表現としてミームになった2000年代末、そしてブリトニー・スピアーズが父の成年後見人の資格を剥奪する訴訟でついに勝利した2021年にも再び脚光を浴びた。
穏健な立場だったアヴリル・ラヴィーンが、デビュー当初対立した対象はむしろパンクロックのファンダムだった。当時はポップ・パンクが特にジャンルとして認められていなかった。1970年代に既にパンクにポップスのメロディを取り入れたラモーンズのようなバンドがいたが、彼らがポップ・パンクの先祖格として呼び戻されるのは、2000年代中盤以降ポップ・パンクがジャンルとして完全に定着した後の話だ。ジャンルの闘いをするリスナーたちにとっては、パンクならパンク、ポップスならポップスでなければならなかった。それを分ける基準は、大衆音楽の果てしなく続く論争の種、「ロックイズム対ポップティミズム(『真』のロックミュージックと『資本主義』ポップミュージックの対立構図)」のフレームにそのまま従っていた。残念なことに、ロックシーンにもまた社会全般と同じく女性蔑視的な視線があり、暗黙のうちに「真」のロックミュージックは「男らしいもの」、大衆に迎合する資本主義のポップミュージックは「女性らしいもの」という、白黒はっきり分ける構図が存在していた。ティーンエイジャー・スター、アヴリル・ラヴィーンは、アルバムにオルタナティブ・ロックの影響を受けたトラックが何曲もあるにもかかわらず、当然だというように後者に分類された。また彼女はデビュー前からパンクロックと緊密な関係にあるスケートボード文化を愛していて、だからこそそのファッションそのままでデビューしたのだが、ロック・ファンたちはそんなアヴリルの姿が、真のパンクでもないのにパンクロックを真似た行為だと批判した。2003年彼女がグラミー賞でデヴィッド・ボウイの名前を間違えて発音した出来事は、「デヴィッド・ボウイも知らないくせに、どうしてロックをやっていると言えるのか」という論争に飛び火したりもした(当の彼女は、それがそんなに問題なのか、自分は18歳なのだから知らないこともあるのではないかという反応を見せた。ラヴィーンという自分の姓もまた間違えて発音されることが多いため、そう考えるのも当然だった)。振り返ってみると、2000年代初めのそのような雰囲気は当然の結果だった。ロックシーンは20世紀からずっと変わらず男らしさを主張し、女性に対して排除的だった。当時活躍した女性アーティストがいなかったわけではない。だがアラニス・モリセットのような女性ロック・シンガーソングライターの成功は、評論家やファンたち、さらには同じミュージシャンたちの間でも「感情的な女子の音楽」と絶えず貶され、死ぬところだった夫カート・コバーンを何度も救ったホールのフロントウーマン、コートニー・ラブは、夫の死後「魔女」のような扱いを受けた。メロディが聴きやすいという理由で「真のロック」論争から攻撃を受けていた、同じアメリカのポップ・パンク系列のファンたちさえ、アヴリル・ラヴィーンを自分たちの一員と認めなかった。実際2022年現在のZ世代は、グリーン・デイとアヴリル・ラヴィーンの1stアルバムをすべてポップ・パンクのプレイリストに入れて一緒に聴き、違和感を感じていないのにだ。
アヴリル・ラヴィーンはそのような冷遇に絶えず反駁しながら10代を送った。彼女の2ndアルバム『Under My Skin』は、共同作曲の比重を減らし、単独での作詞作曲を増やして、より当時のポストグランジのバンドと同じような真摯なムードを披露した。雄壮なアレンジの「My Happy Ending」は、1stアルバムのシングルほどではないが、やはりずば抜けた売上を見せ、彼女の立場を強固なものにした。しかしより成熟したシンガーソングライターの2枚目のアルバムにもかかわらず、彼女を1stアルバムの時から冷遇していた人々の立場は、大きく変わらなかった。アヴリル・ラヴィーンの10代の少女のアイデンティティ、そして10代たちに愛されるスターとしてのアイデンティティには変わりがないからだった。
それ故、すっかりポップスに舵を切った3rdアルバム『The Best Dawn Thing』は大きな転換だった。1stアルバムから2ndアルバムへ流れる方向を見て、もっと暗く深刻な音楽が出てくるのではないかという期待とは異なり、彼女は面食らうほど単純で甘いポップ・パンク・トラック「Girlfriend」でカムバックした。さらにはラップ(よりはチャントに近いが)もしてダンスも踊った。まぶしいくらいに脱色した金髪に鮮やかなピンクのエクステをつけたヘアスタイルは、以降アヴリル・ラヴィーンを代表するイメージとなった(各アルバムの活動期間ごとに、このエクステの色だけが変わったため、髪の色によってどのアルバムの頃なのかわかるという楽しさも加わった)。「Girlfriend」は、彼女をキャリア史上初めてビルボードHOT100の1位に導いた。この曲のミュージック・ビデオは、YouTube史上初めて1億ビューを達成した映像でもある。はなからロッカーたちに認められようとはせず、ロックンロールの影響を受けた音楽を2000年代中盤のメインストリームのてっぺんに突き刺した歌手。彼女の歌詞のように「クソったれ(ポップ・パンク)プリンセス(motherf**king princess)」アヴリル・ラヴィーンの痛快な業績だった。このアルバムのポップス的な感性は、1stアルバムの「Sk8er Boi」から受け継がれているとも見ることができる。「女らしくておもしろくない彼女じゃなくて 私みたいな女の子と付き合ってみて」という歌詞は、今考えてみると旧時代的でもある。この時を起点に、アヴリルがインタビューに臨む態度などもかなり変わった。その前まではロック・ファンダムの攻撃に、とげとげしく防御に出る言葉づかいだったが、この時からは「私はやりたければロックもやるしポップスもやる」という、これ以上ロック・ファンたちに認められることにいちいち拘らない姿勢に変わった。年齢を重ね結婚もして、余裕を持った姿が自然に反映された結果だろうが、この時の変化の幅がかなり大きいため、ある人々は「デビュー当初のアヴリル・ラヴィーンは死んで、今はドッペルゲンガーが活動している」という、無茶苦茶な陰謀論を展開するほどだった(そのような種類の噂はエルヴィス・プレスリーやポール・マッカートニーのような最も人気のあるミュージシャンについてまわるという点で、それくらいアヴリル・ラヴィーンが時代のアイコンだという反証にもなるだろう)。このアルバムはアメリカはもちろん全世界で、特に日本で大変人気だった。その後5thアルバムに入っているアヴリル・ラヴィーン式の荒唐無稽なダブステップの曲「Hello Kitty」は多くの批判を受けたが、同時に3rdアルバムの時に右肩上がりに増えた日本のファンたちに贈るファンサービスだという解釈もあった。日本文化をただただエキゾチックに描いた、繊細ではない作品であることは明らかだが。
一方2000年代ポップシーンでは、アヴリル・ラヴィーンの立て続けの成功に、次第に彼女の影響を受けた女性ポップ・ロック歌手が登場した。ディズニー・スターのヒラリー・ダフやマイリー・サイラスなどが、ポップ・ロックをベースにしたアルバムを出し、すべてが少なからずヒットした。今TikTokでポップ・パンクをよく聴く若者たちは、幼い頃のディズニーのポップ・ロック・サウンドを記憶している人たちが多い。オーディション番組『アメリカン・アイドル(American Idol)』で優勝し、最初はダンス・ポップでデビューしたケリー・クラークソンの場合、アヴリル・ラヴィーンがアルバム『Let Go』のために書いたが収録しなかった曲「Breakaway」をレコーディングして、彼女のパワフルなベルティング・ボーカルとポップ・ロック・サウンドの相性の良さを見せ、そこからヒントを得て彼女の最大のヒット曲の一つ「Since U Been Gone」を出してもいる。ピンク(P!nk)などのポップス歌手も、ボーイッシュなキャラクターの人気を受け継ぎ、独自の領域を築き上げた。2000年代後半、10代たちの間ではエモ(Emo)の影響が加味されたマイ・ケミカル・ロマンスやパニック・アット・ザ・ディスコなどの暗い雰囲気のポップ・パンク・バンドのブームが起こったりもしたが、その間でパラモアのような女性ボーカルバンドも多くの人気を集めた。それもまたアヴリル・ラヴィーンの影響圏の下にあった(この記事の初めの方で紹介したエモラップに影響を与えたエモポップ・パンクがこの系列だ)。
そして2000年代末から2010年代末まで、アヴリル・ラヴィーンはしばらくポップスの最も輝かしい場所から外れていた。それは特に彼女のせいではなかった。時が経ち、大衆の好みが変わった。2000年代末を起点にポップ・ミュージックの中心は、自然とロックからEDMやヒップホップ、R&Bに移った。アヴリル・ラヴィーンの2番目の夫チャド・クルーガーが所属するニッケルバックなどのバンドが、続けてラジオでのヒットを生み出してはいたが、ロック・ミュージックはもはや若者にはクールな音楽として認識されなくなった(特にそれでもヒットしていたニッケルバックは、他のバンドより目につくという理由で、インターネット空間で一層からかいの対象になったりした)。2010年代最も人気のある女性ポップスターはレディー・ガガやリアーナ、ケイティ・ペリーなどだった。もちろん彼女たちもまた「Shut Up and Drive」や「Teenage Dream」などの曲で、ポップ・ロックの影響を表してもいた。だがアヴリル・ラヴィーンは、その時期エモーショナルなロック・バラードをしたがっており、当時のレーベルだったRCAレコードは、そのような嗜好が流行と合わないと考え、対立が続いた。妥協を経て出した4thアルバム『Goodbye Lullaby』や、再びポップス路線を選択した5thアルバム『Avril Lavigne』は、彼女の名に相応しい人気は集めたが、1stアルバムほどのものすごい成功を収めることはできなかった。
泣きっ面に蜂で、5thアルバムでツアーを回っていた彼女に、2014年ライム病診断という試練が訪れた。アヴリル・ラヴィーンはこの病気で、2年間病床生活を送らなければならなかった。2015年にはチャド・クルーガーと離婚してもいる。劇的に回復した彼女は、2019年生死を賭けた闘病の経験を糧に曲を書き、6年ぶりに6枚目のアルバム『Head Above Water』を出した。死を前にして神を求める同タイトルの曲の歌詞は、彼女をビルボードのポップス・チャートよりキリスト教音楽チャートで、より高い順位に導いている。
そして2020年。嘘のようにポップ・パンクの流行が戻ってきた。TikTokをはじめとするSNSでは、すでにシンプル・プランの「I’m Just a Kid」やパラモアの「All I Wanted」などの曲がミームとして呼び戻されていた。最初はラッパーとしてデビューしたが、ポップ・パンク・シンガーソングライターとして生まれ変わったマシン・ガン・ケリーは、アルバム『Tickets to My Downfall』がビルボード200アルバム・チャートで1位を獲得し、華麗なる再起を人々に知らせた。故人となったリル・ピープやジュース・ワールド以降、エモラップの第2世代を形成しているヤングブラッドやザ・キッド・ラロイは、ポップ・パンクの影響をより強く表していた。特にザ·キッド·ラロイとジャスティン·ビーバーの 「STAY」は、ビルボードHOT100でBTSの「Butter」と1位を競い、2021年最高の人気曲の一つとなった。『Tickets to My Downfall』をプロデュースしたブリンク 182のドラマー、トラヴィス・バーカーは、活動により拍車をかけ、2020年から数多くのアーティストの作品にフィーチャリングで参加した。アヴリル・ラヴィーンもまた同じだった。このジャンルのアイコンも同然な彼女は、ウィローやモッド・サンなどとのコラボレーションを披露し、カムバックの期待感を一層高めた。そしてついに今年2月25日、彼女はトラヴィス・バーカーのレーベルDTAレコードからニューアルバム『Love Sux』を発表した。デビュー20周年となる年なので、ニューアルバムが出るだろうという予想はあった。だが今年がこれほどまでに「潮が満ちる」年になろうとは、ほんの5年前には誰も知らなかっただろう。
新譜『Love Sux』は文句のつけどころのないポップ・パンク・アルバムだ。流行に合わせて急遽作ったアルバムではない。最近のインタビューによると、パンデミックでツアーが止まり、自然とアルバム制作に入ったのだが、その間に流行がこれほどまでに大きくなったのだと言う。完璧なタイミングだ。彼女はタイムマシンにでも乗ってきたかのように、20年前の音楽とファンションを忠実に再現した。人によってはポップ・パンクの世界へのハードルだったかもしれない、多少幼稚で直観的な歌詞さえもそのままだ。トラックはほとんどが3分を超えない。よりパンクに近づいた形と見ることもできるし、曲の長さを短く維持し、ストリーミングを容易にした近頃のポップスの時流に乗っていると見ることもできるだろう。プロデューシングはかなりタイトにつなぎ合わせられ、粗いギターや速いドラムを維持しながらも、すべてのリズムとピッチが変わらずに、すっきりとしたベクター画像のようなサウンドだ。曲の長さが短いからか、そのような簡潔明瞭なテクスチャーが一層際立つ。昨年11月に先行公開した「Bite Me」や今年の1月にやはり先行公開した「Love It When You Hate Me(feat. blackbear)」どちらもがそうだ。同じようにポップ・ロックをしているが、わざとインディーな感じを出そうとローファイにアプローチした、オリヴィア・ロドリゴの2021年のアルバム『SOUR』とは正反対のアプローチだ。「I’m With You」や「When You’re Gone」を愛するファンたちのために、「Dare To Love Me」のようなロック・バラードも忘れなかった。自身も最近多くのフィーチャリング・コラボをしているが、『Love Sux』もまた華やかなフィーチャリング陣のサポートを受けている。その面々を見ると、最近のポップ・パンク・リバイバルの縮図のようだ。今のポップ・パンクは、ブラックベアのラップと無理なく調和する音楽になっており、マシン・ガン・ケリーのようにもともとラッパーからロッカーに大きな転換を成し遂げた人物もいれば、ブリンク 182のマーク・ホッパスなど、その時代の人気アーティストたちが集められている。
アヴリル・ラヴィーンのボーカルからは、歳月の痕跡を見つけることは難しい。かえってより強く鋭くなっている。特に「Bite Me」の突くような最初の小節の歌の出だしは圧巻だ。ティーンエイジャー・スターのイメージに多少隠れていたかもしれないが、そもそも彼女は歌が上手くてカナダからアメリカまで連れてこられた才能の持ち主だった。彼女の唱法は依然として若く、さらに若い頃よりもっと確信に満ちている。隙なくすっきりと作られたプロデューシングであればあるほど、ライブでそのまま表現するのは容易ではないが、彼女はすべてをあまりにも簡単にやってのける。
2022年のロックシーン、その中でもポップ・パンクシーンが2000年代と比べて最も変わった点は何だろうか。まだシーン全般に適用するには難しい話だが、さまざまな人種とジェンダーのアーティストが登場しているという点だ。2000年代当時には、アヴリル・ラヴィーンが経験したように、女性に対して排除的だったことはもちろん、人種的な多様性も不足していた。カナダのポップ・パンク・アーティスト、フィーフィー・ドブソン(Fefe Dobson)は、優れたアルバムを出したにもかかわらず、黒人のハーフだという理由でレーベルから持続的なジャンル・チェンジ(もちろんR&Bのような『アーバン』ジャンルへ)を強要された。やはり黒人とネイティブ・アメリカン系の子孫であるラッパー、トラヴィー・マッコイは、ジム・クラス・ヒーローズというポップ・パンク・バンドで活動していた当時、シーンの人たちと交われなかった経験を告白してもいる。もちろん今だからと言って、すべての問題が一遍に良くなるわけではなかった。しかし、白人音楽のイメージばかりだったポップ・パンクの歴史を新たに書き記していっている若いアーティストたちがいて、彼らがそれぞれの場所で一生懸命音楽を作っている。アヴリル・ラヴィーンがフィーチャリングしてもいるウィローは、子どもの頃トップスターである父ウィル・スミスの後押しでダンス・ポップ歌手としてデビューしていた過去から抜け出し、ポップ・パンク・アーティストとして生まれ変わっている。がっちりとしたサウンドとライブ・マナーを備えたミート・ミー・アット・ジ・オルターは、メンバーたちが全員有色人種の女性で構成されたバンドだ。それ以外にもD-ウェインやケニーフープラなどが、ポップ・パンクのニューフェイスとして注目されている。
2010年代後半には、アメリカのインディーシーンを中心に女性ロッカーたちが大挙して登場した(ギターメーカーのフェンダーによると、常に男性の購入者が圧倒的だった性別比がほぼ等しくなるほど、女性の消費者が増えたと言う)。そのうち相当数が、少女時代にロックスターを夢見させた存在としてアヴリル・ラヴィーンを挙げている。サッカー・マミーやスネイル・メイルなどのインディー・アーティストはもちろん、テイラー・スウィフトやオリヴィア・ロドリゴのようなポップスターもアヴリルのファンを自任する。2000年代初めにはアヴリル・ラヴィーンが「真」のロックではないと批判する人たちが多かった。しかし彼女はポップスに片足を踏み入れていたため、より多くの大衆に向けて自分を露出することができ、年の若いリスナーにまでアプローチすることができた。彼女を通してロック・ミュージックに憧れるようになった少女たちが、2010年代に入りほとんど死にかけていたロックシーンを蘇らせたことは、まさにポップスにとって皮肉な話だ。
ポップスの力とはそんなところにあるように思う。多くの子どもたちにとって初めて自分の心を打った音楽とは、ほとんどがアクセシビリティの高いポップスだ。誰が何と言っても、そのようなアーティストたちは子どもたちとともに成長し、子どもが育って大人になってからも一緒に仲良く年を重ねていく。アヴリル・ラヴィーンもまたそうだ。あの頃10代を過ごした人たちにとっては懐かしい友だちであり、今盛んに活動している女性ロッカーたちにとっては、不毛な土地に種を蒔いた先駆者だ。枯れていたポップ・パンク・ジャンルの人気が奇跡的に戻ってきた今、だからこそアヴリル・ラヴィーンのカムバックがこの上なく嬉しい。
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