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文. チェ・ジウン(作家)、イム・スヨン(映画専門誌『シネ21』記者)、ソ・ソンドク(ポピュラー音楽評論家)、キム・ギョウル(作家)
デザイン. チョン・ユリム
写真. My Alcohol Diary Youtube

ウェブバラエティ『たいしたものは何もありませんが』

チェ・ジウン(作家):「法に触れない範囲でやりたいことをすべてやって生きよ」という有名MCユ・ジェソクの言葉を受け、「合法的暴れん坊」の道を進むことにした(数え年で)21歳のイ・ヨンジが、家に客を招待し、一緒に酒を飲みながら語り合う。壁に巡らせた簾は今にも落ちそうに大雑把で、玉子焼き一つ作るにもドタバタと大騒ぎだが、この番組は『文明特急』に次いで、K-POPファンたちが注視せずにはいられないトーク番組として地位を確立しつつある。誰に会っても戸惑うことなくスムーズに会話を続けていくことができ、相手が気恥ずかしくならないように褒めたり、励ましの言葉をかけられるのは、ヨンジが持つ特別な才能だ。愉快に雰囲気を盛り上げる一方、同僚芸能人たちの悩みや苦しみを機敏に理解し、彼らが心のうちを吐き出せるよう雰囲気を作るヨンジのおかげで、招待客のファンはもちろん、彼らについてよく知らない視聴者にも、その飲みの席は見物する楽しみがある。ニップレスシールの種類と性能についてまじめに説明するSUNMI、ミスするたびに罰として酒を飲むゲームをしていて、酔って泣きながら所属事務所に対する愛を告白したかと思うと、そんなことがあったかというように大声で歌を歌うゲームに興じるHOSHIの姿を、ここ以外にどこで見ることができるだろうか。ヨンジの肝臓がこれからもずっと健康であることを望むばかりだ。

『閑山:龍の出現』(原題)

イム・スヨン(映画専門誌『シネ21』記者):李舜臣3部作の2番目の作品『閑山:龍の出現』は、時間軸では前作『バトル・オーシャン 海上決戦』より5年前の閑山島海戦の大勝を扱っている。1592年文禄・慶長の役勃発以降、李舜臣将軍という「龍の出現」がどうやって可能だったのか、一種の前日譚としてアプローチしている。そのため『バトル・オーシャン 海上決戦』とは異なり、戦闘自体のスペクタクル以前に、周辺のキャラクターとの関係を丁寧に想像し、李舜臣の妙計がどうして可能だったのかに力を入れて説明するアプローチ方法を取っている。李舜臣(パク・ヘイル)と日本軍の将軍脇坂(ピョン・ヨハン)が互いに諜者を送り、相手の計画を見抜いて戦闘に備える前半部分が、スパイものの文法に近いということも興味深い点だ。特に日本軍の将軍脇坂が把握している分だけ、李舜臣の戦術を露出させ、決定的な情報は隠すプロットは、「歴史がネタバレ」な映画に如才なく緊張感を吹き込む。何より『閑山:龍の出現』は、観客が望むものを見せる夏のハイシーズンのブロックバスターとして、果たすべき役割を果たしている。弱点を改善した亀甲船のずっしりとした破壊力、鶴翼の陣(鶴が翼を広げた形に、左右に長く広がった陣形)戦術の威力を見せる絶妙なタイミングは、ほぼ『犯罪都市』シリーズのマ・ドンソクが悪人をやっつける時のカタルシスと肩を並べるほどだ。『露梁:死の海』(原題)で締めくくられる李舜臣トリロジーのコアとなる骨組みを構築することに成功した続編。

「Undo」- Heize

ソ・ソンドク(音楽評論家):いつの頃からか歌の歌詞は、さまざまな理由により少し心地が悪い。歌の中の話者の相手ではなく、リスナーである私をぎょっとさせるきつい言葉がそうだ。全く使われる理由がない馴染みのない単語と無理矢理な語順が、ライムという理由で価値を得る時もそうだ。どこまでが率直な感情の表出であり、わざわざ馴染みを持たせない領域であるのか、いつその線を越えるのか、断言するのは難しい。しかし良い例を挙げることで、ちがいを言うことはできる。Heizeの「Undo」が、「心地の悪い」の代わりに「付属品」を、「一緒に」の代わりに「笑うように」を選ぶ瞬間、言葉を追っていた聴覚は一瞬にして呼び起こされ、話の流れがはっきりと残る。歌詞を特に見なくても、この曲が何を歌っているのか理解できない人はおそらくいないだろう。かえって歌詞は、一人でもすらすら読めてつかえることがない。聴いていて気がかりな部分がなく、長い間プレイリストに残るだろう。説明の必要がない、いつも100%伝わるポップスは稀だ。

​『名前のないものも呼んだなら:パク・ボナ美術エッセイ』 - パク・ボナ
キム・ギョウル(作家):芸術への原動力はどこから来るのか。自分の気持ちをさらけ出すことにとどまらない芸術家たちは、どんな話をするのだろうか。芸術家に必要な美徳が他の人と感応する気持ちであれば、芸術家には他者が受ける苦痛と未来に訪れる苦痛に対する敏感な感覚が必要だろうし、逆に言えばそのような感覚があって初めて、その人は自分の体から自由になる芸術家になるだろう。

この時代に芸術家が強烈に共鳴するほどの苦痛を挙げてみよう。偏見と差別により苦痛を受ける社会的弱者になることも、故郷を失った移民になることも、死んで肉になることが生きることの唯一の理由である家畜になることも、生活の場を失い死にゆく生物になることもある。著者の言葉を借りるなら、「名前を奪われた者たちと名前のない存在たち」だ。本に収録されている美術家たちは、そのような苦痛をそれぞれのやり方で人々に見せる。美術作家オスカー・サンティランは、音楽家たちに頼み、オランダで絶滅した、または絶滅の危機にある鳥の声を森の中で楽器で演奏するパフォーマンスを披露する(「The Whisperer」)。美術家チョ・ウンジは、口蹄疫にかかった豚の埋却地と推定される場所の土を持ってきて、豚の脂と混ぜた後壁に投げつける(「変身_豚脂スコア」)。著者自身は、観覧客にリゾートで聴くことのできる自然の音を聞かせた後、映像からは予想できなかった小道具でその効果音を作っているフォーリーアーティストの姿を見せる(「Kotakina Blue 1」)。

著者のストレートながらも構成力のある文章は読者を親切に案内し、木から始まり木に終わる円形構造の目次と繊細に調整された本文のフォントが、本の完成度を高める。薄い本なので、持ち歩いてゆっくりと読むのも良い。