*この文章にはネタバレとなる内容が含まれています。

一本のドラマによって、チェス・セットとチェス関連図書の販売量が跳ね上がり、オンライン・チェス・サイトの加入者が急増した。公開わずか1ヶ月で、全世界6200万世帯が視聴した、Netflixのドラマ『クイーンズ・ギャンビット』の話だ。1950〜1960年代を背景にした『クイーンズ・ギャンビット』は、人並みはずれた才能を持つ少女ベス・ハーモン(アニャ・テイラー=ジョイ)が、チェスで世界最高の座に上りつめるまでの道のりを描いた、成長物語だ。不慮の事故により、悲惨な記憶を持ったまま生きていくベスにとって、チェスのゲームは、意志と関係なく不幸に見舞われる現実とちがい、64のマスの上で自分の意志によって動かすことのできる、もうひとつの世界であり、人生だ。ベスは天賦の才能と闘志で、大会で優勝を重ね、名をとどろかせるが、さらに前に進むためには、心の闇と闘い、打ち勝たなければならない。

『クイーンズ・ギャンビット』は、パンデミック以降人気上昇の気配を見せていたチェス・マーケットにブームを引き起こした。ドラマが公開された去る10月末を境に、玩具メーカーGoliath Gamesのチェス販売量は178%から1048%まで増え、オンラインでチェス対決ができるChess.comには、235万人以上の新規利用者が加入した。何より『クイーンズ・ギャンビット』が招いた最も大きな変化は、既存の映画やドラマでは見ることができなかった「卓越した女性チェス選手」というキャラクターを通して、チェスが男性だけのものだという認識に亀裂を入れたという点だ。放映以降、オン・オフラインのチェス講座に女性の参加者が増え『クイーンズ・ギャンビット』をきっかけにチェスに入門する少女たちが出てきた。CNNはこれについて、「歴史的に、男性の分野で勝利する若い女性を描写したという点が、反響を引き起こした」と報道した。インターナショナル・マスターであり、チェス慈善団体運営者であるマルコム・ペイン(Malcolm Pein)は、ガーディアン紙で「最も重要な点は、幼い少女たちが興味を持つということだ。これによって親たちが、チェスが息子だけでなく、娘たちのための趣味だという事実に気づいてくれることを願う」と強調した。目の前に繰り広げられるベスの成功は、たとえ仮想の話だとしても、「できる」という可能性を見せてくれたのだ。

しかしこのファンタジーは、ともすれば、時代のイデオロギーが絡んだ社会問題を、「努力しない個人」の問題に置き換えることができるという点で危険だ。例えばベスは、世界チャンピオンのヴァシリー・ボルゴフ(マルチン・ドロチンスキ)を「一番怖い相手」と呼ぶが、敗北の原因は対戦相手の実力ではなく、世間に背を向けた母親アリス・ハーモン(クロエ・ピリー)の影から抜け出せず心を閉ざしてしまい、薬物と酒に容易に依存してしまう、自分自身の「意志」だ。そんなベスの人生で、チェス界だけでなく社会全般にわたり存在する性差別、月経による不自由さと望まぬ妊娠に対する恐怖など、実際の女性たちの経験は、縮小され、あるいは消されてしまう。ワシントン・ポスト紙はこれについて、女性の性差別被害を見世物にしなかったことは肯定的だが、原作小説とドラマの両方が「女性の日常に潜む差別を理解できない」男性中心の観点だと批判しており、女性初の世界チェス・ランキング上位10位へのランクインを成し遂げたグランドマスター、ユディット・ポルガーもまた、男性たちが素直に敗北を認め、ベスを尊重するという点で、「女性たちが際立つことを難しくしている、実際の環境」を描いていないと指摘した。

ただ現実の不便さを描かなかったからといって、『クイーンズ・ギャンビット』が伝えるメッセージは無意味ではない。『クイーンズ・ギャンビット』という幻想と現実の乖離についてじっくりと考えてみることは、過去が残した問題を解決するきっかけであり、「新たな対局」のための始まりになり得る。ニューヨーク・タイムズ紙が言及しているように、「ベスに起きた出来事が、典型的であろうがなかろうが、『クイーンズ・ギャンビット』の人気は不平等と性差別、そしてそれに関して何ができるかについての議論を、今一度改めて呼び起こした」。ボルゴフがベスにかけた言葉は、もしかすると『クイーンズ・ギャンビット』が世界のすべてのクイーンたちに贈る応援であり、前の世代が次の世代のために実現しようとする誓いなのだろう。“It’s your game. Take it.”

TRIVIA

ユディット・ポルガー(Judit Polgar)
ハンガリー出身のチェス選手で、1991年15歳で当時最年少のグランドマスターになった。彼女は2002年、グランドマスターであり世界チャンピオンのガルリ・カスパロフ(Garry Kasparov)との対決で勝利し、女性は男性チャンピオンに勝てないという通念を打ち破った。2005年世界ランキング8位を記録、1989年から25年間、世界女性ランキング1位を守った。一方、『クイーンズ・ギャンビット』のチェス監修を担当したガルリ・カスパロフは、女性選手たちを見下し、「チェスは大いなる闘いであり、女性のためのものではない」と述べていたが、後に自身の誤りを認め、ポルガーの実力に尊重の意を表した。
文. イム・ヒョンギョン
デザイン. チョン・ユリム