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文. キム・ヘリ(映画評論家)
写真. NEW, Plus M Entertainment

●このコラムには、『怪物』のネタバレが含まれています。

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突き詰めれば、『怪物』の登場人物たちを動かす動機はひたすら愛だ。麦野早織(安藤サクラ)は息子湊(黒川想矢)を全力で愛し、教師保利(永山瑛太)は生徒たちを愛し、湊は友だちの依里(柊木陽太)を愛している。それでも彼らは深刻な傷を負い、崖っぷちに追い込まれる。一体何が間違ったのだろうか。脚本家坂元裕二が書いたシナリオは、異なる人物の視点から同じ出来事を三度見せる反復構造を選んだ。第一章の視点の主は早織、第二章は教師保利、第三章は湊と依里だ。3つの章はすべて町のある建物で発生した火災からスタートし、豪雨で終わる。ただし第一章よりは第二章、第二章よりは第三章が、豪雨以降より長い時間を描いている。

夫と死別し、クリーニング屋で働いて家族を養っている早織は、心優しい小学5年生の息子湊におかしな兆候を見つける。運動靴を片方なくして帰ってきて、ハサミで髪をむやみに切ったかと思えば、走行中の車のドアを開けて飛び降り怪我までする。「僕の脳は豚の脳じゃないの?」という意味不明な質問もする。会話の末に保利という教師の虐待を疑った早織は、学校を訪ねて問題解決を要求する。最初は漠然とした謝罪で対応していた保利は、実は湊が校内暴力の加害者だと突然主張する。ショックを受けた早織は相手と目される少年依里に会い、子どもの陳述により教師保利を問い詰め、懲戒処分を勝ち取る。第二章の視点の主である保利は、心から生徒を思いやるおおらかな性格の教師だ。特異な点と言えば、誤字脱字に敏感なことぐらいだが、周りからは「あなたが笑うと怖い」とか、「お前は目つきも印象も良くないから出てくるな」といった言葉を聞く。しかし保利の本当の欠陥は、相手を制止する時口より手が先に出るという点で、それは誤解の種となる。学校から追い出された後、作文の宿題を何気なく添削していた彼は、湊と依里が話していない真実に気づき、豪雨の中早織の家に駆けつける。第三章は、大人たちが謎解きと格闘する間に、11歳の湊と依里が互いに頼り、惹かれ合っていることを見せる。彼らは自分の説明できない感情が怪物の印ではないかと恐れながらも、森の中に捨てられた列車の車両の中に二人だけの世界を作る。宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネルラのように(是枝裕和監督はシナリオを読み、まず最初に『銀河鉄道の夜』を思い浮かべたと言う)。

『怪物』の構造を説明するために、黒澤明監督の傑作『羅生門』がよく取り上げられるが、正確な比較ではない。まず『怪物』では真実は一つだ。主観によって変わらない。真実が大きく複雑なため、制限された視野を持った個人は全貌を見ることができず、誤解するばかりだ。人物のキャラクターも『羅生門』と異なり三章にわたり一貫性がある。だとすれば『怪物』はなぜ敢えて物語を3つに分割したのだろうか。

『怪物』が2023年5月、カンヌ国際映画祭で初めて公開された時、『羅生門』とともにずいぶん取り上げられた映画は、昨年度のカンヌ国際映画祭の上映作であるルーカス・ドン監督の『CLOSE/クロース』だった。やはり思春期以前の少年たちの親密な関係が、異性愛中心の主流社会の通念に晒され経験する苦痛を描写したドラマだったからだ。2本の映画のさまざまなちがいのうち最も決定的なのは、『CLOSE/クロース』が少年二人をクローズアップしている一方、『怪物』は二人の秘密が作り出す余波に関心があるという点だ。『怪物』は嫌悪に対する恐怖によって生まれた秘密と嘘が、当事者たちを超え、繋がっている人たちの人生に実質的にどんな影響を及ぼすのか、インクがコップの水の中で広がる光景を描こうとしている。やはり韓国に紹介された作品『MOTHER マザー』、『それでも、生きてゆく』、『最高の離婚』から察するに、坂元裕二は、人物はすなわちその人が他者と結ぶ関係と定義されると信じている作家と思われる。『怪物』の三章の形式は、周りの人たちが経験する混乱と苦痛に、二人の少年のそれと同じぐらいの重みを載せる「錯視効果」を起こさせる。一方映画の分割は、分け離されてなかなかそれを乗り越えられない母親と息子、教師と生徒の親の生活世界を暗示している。超自然的な要素がまったくないにもかかわらず、『怪物』というタイトルとそれとなく呼応するSFホラーのムードを生み出すのは、そのような断絶の表現だ。特に第一章で早織が職員室を訪ねてきた時、彼女を取り囲みオウムのように謝罪する教師たちは、まるでエイリアンに体を奪われた抜け殻のように見える。謝罪は惜しまないが、実質的な解決策には無関心な日本社会の壁をイメージ化した感さえある。

「怪物」は、限りなく膨張する宇宙に対応できない人間が、世界を理解していると自らを欺くために使う万能のフレームだ。『怪物』ではなくても、私たちが知っている教訓だ。だが恐怖はわかっている罠に再び陥れる。是枝裕和監督はエッセイ集『小さな話を続けます』で、「理解ができないから怖いのなら、理解するよう努力すればいいのに」と、他者に対する想像力の不足を嘆いている。

『怪物』には人間と非人間の線を引く台詞がよく登場する。保利の先輩教師は過激な保護者をモンスターと呼び、早織は校長に「あなたには人間の心がない」と一喝する。依里の父親は息子を「あれ」と呼び、人間にしなければならないと躊躇うことなく言う。彼が息子に放った「お前は病気だ、お前の脳は豚の脳だ」という暴言は、依里と湊に罪の意識を植えつけるにとどまらず、さらに波及して依里をいじめる同級生たちの武器として拡散する。『怪物』のモンスターは希釈された状態で空気中に広がっている。この映画で早織と保利が早合点するように煽り、湊と依里が嘘をつくように背中を押す圧力は、誰が口にしたのかを特定することも難しい集団の中の叫びと、囁かれる噂から来る。その中には「保利先生が押したから落ちた!」といった無責任に陥れるような言葉もあり、「それでも男か」、「お母さんはお前が結婚して平凡な家族さえ作ってくれればいい」というような、異性愛中心の社会で無意識に流れている慣用句もある。よく知りもしないで自分が正常だと信じて疑わない人たちがひと言ずつ放つ言葉は、わずか11歳の少年たちに今の人生では幸せになれないと悲観させ、生まれ変わりに執着させる。だが坂元裕二が思いをぐっと込めて書いた台詞のように、私たちは今回の人生で幸せにならなければならない。
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新軍部が仕掛けた12・12クーデターの記録をもとにキム・ソンス監督が演出した『ソウルの春』で、「怪物探し」ははるかに容易そうに見える。憲法に違反した軍事反乱の首謀者チョン・ドゥグァン(ファン・ジョンミン)が中央に陣取っているからだ。ファン・ジョンミンが演じるチョン・ドゥグァンは、俳優イアン・マッケランが表現したシェイクスピアのリチャード三世(『リチャード三世』)を連想させる。実際全斗煥(チョン・ドゥファン)が国民に残した印象は、はるかに鈍く感情に乏しい人物ではなかったかと思う。チョン・ドゥグァンはリチャード三世のように体を陰険そうに折り曲げ、道徳的劣等感など痰のように吐き捨てて、権力を簒奪する。権力に対する欲望を満たせなかった「不満の冬」を暴力で終わらせ、民主主義の春を奪い取る。似ているところが一つもない俳優ファン・ジョンミンが、チョン・ドゥグァンのモデルである全斗煥に驚くほど似て見える理由は何だろうかとしばし考えた。一つ目は、全斗煥政権時代を覚えている世代が「全斗煥ニュース」(当時ニュース番組の時間になると、まず最初に報じられるのが全斗煥の活動関連のニュースだった)を通して目に焼きつけられた丸い頭のシルエットがきっかけのように作動するためで、二つ目は、表現主義的な照明の効果だと思われる。一種の戦争映画としては室内シーンがとても多い『ソウルの春』の照明は、顔に落ちる陰影と足下から伸びる不吉な影を通して、韓国人の集団記憶に残っている全斗煥の肖像をファン・ジョンミンの体に纏わせる。

つまりチョン・ドゥグァンは闇で描いた人物だ。劇中自宅にハナ会(軍部内に結成された秘密組織)の将校たちを呼び集めた席でクーデターの計画を明かし、彼は灯りを消して光を追いやる。暗い部屋に後輩を呼び、自身の執務室の椅子に座らせて説得するシーンは、ほとんどドイツ表現主義のヴァンパイア映画のように撮られている。「今から君は私で、私は君だ」。個性を消して全体(ハナ会)を自我と同一視するよう催眠にかけるファシストの声だ(実際にハナ会の規約には、組織を裏切った場合「人格抹殺を甘受する」という奇妙な条項がある)。不利な状況で反乱軍鎮圧に最後まで尽力する首都防衛司令官イ・テシン(チョン・ウソン)は、チャン・テワン将軍をモデルにしているが、実在の人物の脚色というよりはチョン・ドゥグァンの対義語に近い。『ビート』以降キム・ソンス監督とともにスクリーン上の人物像を作ってきた俳優チョン・ウソンは、『ソウルの春』でまるで『三国志』の趙雲と張飛を合わせたような姿で、幸州大橋で戦車を阻止し、幾重にも重なるバリケードを一人越えていく。彼がたった一人で孤立すればするほど、非現実的であればあるほど、観客は彼の敗北を「自分たち」の普遍的な敗北として自然に受け入れる。映画館を出て、1979年以降の反乱軍と鎮圧軍の人物たちの政治的系譜を検索する前に。

12月12日夜の9時間のタイムラインを比較的詳細に再現した『ソウルの春』は、クーデターの首謀者はチョン・ドゥグァンや国民だというよりも、ハナ会に忠誠を尽くし互いを「兄貴」と呼んでいた軍人たちの協力により実現が可能だったことを見せる。結局『ソウルの春』が指し示す「怪物」は、自分が属す一派が特権を享受することが公益に優先する正義だと信じ、国民が託した公的な物理力を自国軍と市民に向けて振るった組織だ。

『ソウルの春』で反乱軍と鎮圧軍が一触即発の状態で対峙する世宗路の一連のシーンは、映画的創造の産物だ。イ・テシンのモデルであるチャン・テワン首都警備司令官は、実際には部下の裏切りにより逮捕された。起きたことのない市街戦をスクリーンで観ながら、私は気づいた。私たちが切に願ったのは、ヒトラーを早々と消し去った『イングロリアス・バスターズ』のように、民主主義が勝利する代替歴史でさえなかった。私たちが本当に見たかったのは、独裁と虐殺を犯し絶対に謝罪しなかったその人物が、それ相応に侮辱を受ける光景だった。羞恥心と侮蔑感が一瞬よぎるチョン・ドゥグァンの顔こそ、実際には最後まで私たちが見られなかった、見なければならなかった何かだった。