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ペ・ドンミ(映画専門誌『シネ21』記者)
写真IMDb

*このコラムには、『サブスタンス』(原題:The Substance)のネタバレが含まれています。

LAに初めて到着した者の目を捉えるものが2つある。すらりと伸びたヤシの木々と、果てなく続くビルボード(大型広告板)の列だ。LAではどこに行ってもこの2つを目にすることになる。暑さを和らげてくれそうなヤシの木とは違い、ビルボードは公開予定の映画やシリーズ作品、商品を際限なく並べ、そこを初めて訪れる者にある種の圧迫感さえ与える。映画『サブスタンス』の主人公エリザベス(デミ・ムーア)もそれらに囲まれて暮らしている。旅行客らとエリザベスの違いは、彼女がビルボードを飾ることもある有名俳優だという点だ。エリザベスは多くの俳優が夢見るアカデミー賞の受賞者で、30年もの間フィットネス番組『スパークル・ユア・ライフ』を率いてきた。そして彼女は50歳になったばかりだ。

誕生日に番組からの降板を侮辱的な形で知ることになったエリザベスは、みじめな気分で車を運転している最中、あるビルボードから自分が出演する歯磨き粉の広告が剥がされる様子を目撃する。相次ぐ衝撃のうちに彼女は追突事故にまで遭ってしまう。やがてカメラは、患者衣姿のエリザベスが痩せて乾いた背中をさらして呆然と座っている姿を映し出す。病院からの帰り道、ポケットに手を入れたエリザベスは「(これが)自分の人生を変えました」というメモとUSBを発見する。何者かによって入れられたUSBには、「より良いバージョンの自分」を生み出す薬物に関する短い映像が入っていた。7日間を「より良いバージョンの自分」として生き、別の7日間を本来の自分として生きることができるというこの薬物の名前は、映画のタイトルと同じ「サブスタンス」だ。「より良いバージョンの私」として生きている間は、「本体」の脊髄液である安定剤を注射するだけで新しい自分として安全に生きていけると映像は説明する。その映像はウェブではなくUSBを介して主人公の手に渡るが、ショート動画やASMRのように簡潔で直接的だ。コラリー・ファルジャ監督は、映像とSNSの時代において我々がより速く、より強力に外見至上主義に囚われることを密かに示唆している。特にこの映像は、サブスタンス体験の過程でどんな苦痛や副作用が伴うのかについて適切な説明を加えない。まるでSNSや美容整形アプリが、ドラマチックに改善された容姿のビフォアアフターを並べて最大の効果を強調する一方で、後遺症や精神的な影響についてはまともに語らない原理と似ているように見える。さらに、背中を裂いて別の自分が現れるという痛々しい状況を語っているにもかかわらず、人体とは関係のない卵の黄身によってその危険性を矮小化しようとする点が、この映像の最も有毒な部分である。

このように『サブスタンス』は外見至上主義とエイジズムについてのホラー映画だが、とりわけ「ボディ・ホラー」のジャンルと言ってよい。「より良いバージョンの私」であるスー(マーガレット・クアリー)の誕生シーンは、この映画のアイデンティティを示す代表的なシーンだ。活性剤を注射したエリザベスは冷たい浴室の床に倒れ込み、まもなく若くて美しい女性が生まれる。しばらく自らの姿に感嘆していたスーは、自らの誕生によってエリザベスの背中にできた傷の処置を行い、交代生活の成功のために、エリザベスの肉体からエネルギーを得る方法をすぐに習得する。カメラはそのプロセスを執拗に記録する。エリザベスに似て非なる「より良いバージョン」のスーは、エリザベスの後任を探すオーディションに合格し、ハリウッドの新星になる。しかし、観客の心は不安だ。冒頭で示されたルールを破るのではという不吉な予感が拭えないからだ。その懸念は現実のものとなる。一週間というスーのタイムリミットは、『ヴォーグ』の表紙撮影などによって7日を超えてしまう。大衆に愛されたいというスーの執拗な欲望はより大きなスポットライトを求め、スーはエリザベスの肉体が持つ力を無理に搾り取るようになる。より良いシルエットのために常に身体を締めつけるジッパーに苦しんでいたエリザベスの寂しい背中は、「より良いバージョンの自分」、すなわち自分自身によって傷つけられ、膿んでいく。外見至上主義の哀しい側面には、自分を直接苦しめる存在が他ならぬ自分自身だという事実がある。

この作品に付きまとう形容は、「女性にとってはホラー、男性にとってはコメディ」という表現だ。楽しんで消費する観客たちはレディット(Reddit)などのコミュニティで、『サブスタンス』の男性版だと称して年配の男性俳優とそれに似た若い男性俳優を組み合わせる仮想キャスティングを行い、スーがエリザベスの過食の痕跡を見て“Control yourself!”と鋭く叫ぶシーンに「通帳の残高を見る時の俺の姿」というキャプションを付ける。そうでない観客たちは、『サブスタンス』が恐ろしくて悲しい映画だとキャプションを付ける。何よりも、中心的な情緒は悲しみだと語る。そのため、『サブスタンス』に悲哀を読み取る韓国の観客たちが、ビルボードの中のスーを眺めながら絶え間なく外見をチェックするエリザベスの姿に、地下鉄のいたるところに貼られた整形広告を目の当たりにしなければならない自らの現実を思い浮かべたのは自然なことだ。「オンニ(お姉さん)」という親しみやすい呼称が付けられたり、まるで自由に意見交換ができるコミュニティであるかのように「トーク」と名付けられた整形アプリが広く利用される状況について彼女たちが批判的な書き込みを残したことも、同じく自然だ。

『サブスタンス』の出発点はファルジャ監督の私的で内なる感情であり、観客のジェンダーや経験によって映画への反応が異なるのは仕方のないことだ。「40代になると、自分が消されそうで、いなくなってしまいそうなプレッシャーを感じた」(TIFFのQ&Aにて)と監督自身が打ち明けているが、そういった内面の心地悪さを伝えるために、何度も映画的変奏を重ねている。特に、自己対象化やボディモニタリングといった外見至上主義の闇は、鏡やドアノブなどを通じて繰り返し表現されることによってその強度を増していく。交通事故の後、病院の前で遭遇した旧友フレッドは、エリザベスが最も弱々しい状態にあるにもかかわらず「いまだに世界で一番美しい少女」だと賞賛する。しかしエリザベスは、彼と約束した夕食の前に鏡の前に立ち、自らの身体をじっとモニタリングする。そして窓の外に広がるスーのビルボードを見て、何かを感じたかのように再び鏡の前に立つ。神経質な様子で化粧を直し、外出の準備を済ませるが、今度はドアノブが彼女の行く先を阻む。エリザベスは、金属製のドアノブに映った自らの姿を見て再び鏡の前に行って顔に手をやり、自らの顔を掻きむしりながらへたり込んでしまう。結局、彼女はボディモニタリングの軛(くびき)に囚われ、家から一歩も出られなくなる。頭の中で最悪のシナリオを思い描く現象を「誇張化(awfulizing)」という。エリザベスは外見に起因した不吉なシナリオを作り、それを雪だるまのように転がしながら、内面の深い部分から屈辱的な感情を作り出す。そして憂鬱に囚われ、惨めに背を丸めたまま寝室に自らを監禁する。

映画への評価は様々だが、意見が重なる唯一の点があるとすれば、それはデミ・ムーアの演技力だ。若く美しいものの、本体を蝕むもう一人の自分を人生から消し去りたいという感情と、眩しい美貌を保ったまま永遠の命を手に入れたいと願うキャラクターの切なる二重性を、ムーアは見事に演じきっている。スーの搾取によって髪が抜け、かじかんだ四肢と共に目覚めたエリザベスがサブスタンス体験の終了を選択するシーンで、ムーアは天衣無縫な演技を見せる。エリザベスは激しい怒りに襲われるが、いざスーを葬ることを思うと一瞬にして恐怖に震え、スーを揺り起こす。ムーアは柔らかな表情と優しい声色の中に焦りが透けて見える卓越した演技を繰り広げる。老いたエリザベスを演じるために6〜9時間もの特殊メイクを施し、1〜2時間程度しか撮影できない状況で生まれた表情および感情だとはにわかには信じがたいほどだ。この作品で彼女はゴールデングローブ賞ミュージカル・コメディ部門の主演女優賞を受賞した。生涯初となるゴールデングローブのトロフィーを手にした彼女だが、映画の演技では『ゴースト/ニューヨークの幻』(1991)以来のノミネートで、実に久々のことだった。

『サブスタンス』は外見至上主義に狙いを定めた直接的な語り口で展開するが、同時に曖昧な衝動に満ちた映画というメディア本来の魅力を放っている。このとき、映画に厚みを加えるのもまたデミ・ムーアだ。映画自体がハリウッドスターであるデミ・ムーアの人生と重なり合うことによって、複雑な文脈が生まれるからだ。1990年代の女優のうち、最も高いギャランティーを得ていたムーアは、2000年代に入ってキャリアの下降を経験した。時を同じくして16歳年下の恋人アシュトン・カッチャーと付き合っていた頃、彼女は若作りのためにどれほど努力をしているかということにばかり注目された。膝の皮膚を気にして膝のリフティング施術まで受けたという噂、7億ウォンをかけて全身を整形したというエピソードが彼女の周りについて回った。真偽のほどは定かではないが、ムーアを取り巻く噂は若さを渇望するエリザベスの姿と重なって一つの塊となり、映画の中で現実とフィクションが奇妙な形で混ざりあう。エリザベスが鏡を見るとき、観客はエリザベスの魂を覗き込んでいるようでもあり、一方ではカメラの前に立つムーアの内面を見ているような混交した心情を感じる。このとき、鏡―エリザベス―デミ・ムーアは互いに切り離せない存在になる。

再びLAの風景を思い起こしてみよう。コラリー・ファルジャ監督の想像力は、オーディションでスーが男性審査員たちからかけられた「すべてがあるべき場所にある」というコメントを捻って、スーの「より良いバージョン」ではなく、目鼻立ちはもちろんのこと、身体の様々な部分がランダムに配置されたモンストロ・エリザスーを誕生させる。美しさへの渇望を手放せないかのようにイヤリングを耳につけ、年越しショーのステージに乱入した彼女を取り巻く状況の果てに、モンストロ・エリザスーとスーの姿は消え、エリザベスだけがそこに残ってヤシの木を見つめる。灼熱の太陽が沈み、夜の帳が下りたLAは穏やかな気候そのものだ。エリザベスは、長年にわたる女性への暴力を象徴するメドゥーサのイメージを持ちながらも、不思議と安らかな表情をしている。商業性を巧みに隠し、大衆に幻想を植え付けるイメージを拡大して映すビルボードとは違って、ヤシの木々は常にその場所でありのままに大きな葉を揺らしながら時の中を通過している。エリザベスが最後の瞬間に明るくほほ笑むのは、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイム、それも自らの名前が刻まれた敷石に辿りついたからではなく、彼女が最後に見つめたヤシの木によるものだと信じたい。彼女が最後に見たものが自分のことを苦しめていたビルボードではなく数本のヤシの木だったということが、物語の始まりから終わりまで衝撃と恐怖に包まれていた観客を不思議な形で慰めてくれる。

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