*『セヴェランス』の主要な内容が含まれています。

会社に向かうエレベーターの中、到着すると鳴る「ピン」という音に無意識に反応してしまう乗客がいるなら、その人はApple TV+のドラマ『セヴェランス』(原題:Severance)の視聴者かもしれない。この優れたドラマシリーズで、地下フロアで働く社員たちは出勤と同時に「私生活の自分(アウティ、Outie)」から離れた自我、「職場の自分(インニー、Innie)」に分離される。これは、会社に向かう人々が毎朝自分にかける「出勤モード」の呪文の比喩ではない。「セヴェランス(分離)」という明白な外科手術が介入し、その手術を受けた者は、一つの肉体に二つの精神を持つことになる。例えば、主人公のマーク(アダム・スコット)は、妻のジェマ(ディーチェン・ラックマン)の死に苦しむ時間を減らそうとセヴェランスを選んだ人物だ。彼の人生は、「悲しみに沈む夫としてのマーク」と「ルーモン産業のマクロデータ改良部長としてのマーク」が交互に出現する方式で営まれる。ここで核心となるのは、二つの自我が覚えているのは自らの活動だけで、お互いの存在を認識できないという点だ(そのため、以下のような社内のスモールトークが可能となる。「この傷はどうしたの?」「さあね。アウティが怪我したんだろう」)。仕事と私生活の完璧なオンとオフ。この奇抜な設定は、人々のワークライフバランスへの欲求を満たす『セヴェランス』に人々を引き寄せる決定的な理由になった。この作品が「ハイコンセプト」にとどまっていたなら、視聴者と評論家双方からの好評が3年後のシーズン2まで続くことはなかっただろう。演出、脚本、美術、音楽、演技という全ての要素がテーマに忠実になった結果、『セヴェランス』は「問いかける者の物語」という役割に到達する。
断絶された世界で「つながり」を夢見る
では、『セヴェランス』が問いかけているのは何だろうか。この質問から始めてみよう。働く自分と私生活の自分がはっきり分離されるということは、本当に良いことだろうか? セヴェランスによる完璧な分離は一見、高い生産性と生活の質を同時に可能にする革新的なライフスタイルのように見える。家庭の心配が入り込まない職場、業務連絡が入ってこない家はまさに楽園だ。ところが、劇中でそんな人生を実現した分離社員たちは、誰一人幸せに見えない。地下フロアのインニーたちはデータを改良する業務だけに日々集中し、家にいるアウティたちは肉体的な疲労を感じることなく個人の時間を過ごしているが、皆どこか居心地が悪そうで不自然に見える。両極端の「不気味の谷(アンキャニー・バレー)」を思わせる顔を眺めているうち、ふと、彼らの人生から抜け落ちたものが何なのか気づく。それは「つながり」だ。『セヴェランス』が人生に必要ないとみなされた記憶や痛みを取り除いた人々にもたらしたのは、「効率」や「平穏」ではなく、「無感覚」と「虚しさ」だ。この物語は、ゆっくりと、しかし頑なに語る。人間は断絶を求める存在ではなく、実は切実に「つながり」を求める存在なのだと。
「つながりへの渇望」は、『セヴェランス』の登場人物たちに共通する情緒だ。マークは死んだジェマへの思いを手放さねばならないと頭では分かっているものの、彼女を忘れようとしない。インニーのマークが同僚たちと起こした「革命」を通じてアウティの暮らしを覗き見したとき、地下フロアのカウンセラー・ケイシーが亡き妻ジェマだということに気づいたとき、マークという人間は大きく揺らぐことになる。新入社員のヘリー(ブリット・ロウワー)は、不自然なほどに硬い職場の雰囲気と自分の存在の曖昧さに違和感を抱き、入社初日にここから出してくれというシグナルを発する。そのシグナルは自殺を試みるほど強いものだ(その後、マークとヘリーは惹かれ合うことになる。マークには愛しい妻がいて、ヘリーが実はルーモン社CEOの娘だという事実を知った後も、二人はお互いを求める)。アーヴィング(ジョン・タトゥーロ)は他部署の同僚であり同性であるバート(クリストファー・ウォーケン)に好意を抱く。退勤後もアーヴィングがバートを探している姿は、誰かと近くにありたいという人間本来の欲求を思い出させる。ディラン(ザック・チェリー)にとって大切な人物は息子だ。アウティの家で目を覚まし、自分の息子を見たディランは、そこから子供との再会に全力を注ぐようになる。息子に関する記憶が全くないにもかかわらず、本能的に父親のような行動をとる。マーク、ヘリー、アーヴィング、そしてディラン。このマクロデータ改良部の社員たちは、意図的に孤立の道を選んだ存在であるにもかかわらず、はっきりとした愛情と絆を育んでいく。マークは気づかぬうちに部長としての責任感を抱き、最年長のアーヴィングもまた、チームを守ろうとする。ディランは仲間たちのインニーたちが外の世界について知れるようにリスクを取り、ヘリーはチームのために重大な決断を下す。管理職もその例外ではない。分離フロアを統括しているハーモニー(パトリシア・アークエット)にも、何かに属したいという願望が大前提にある。家庭の不和を抱える彼女は、創立者のキア・イーガンを信奉し、ルーモン社に忠誠を尽くす。完全な分離ではなく、不完全なつながりを選んだ人々にスポットを当てた『セヴェランス』は、断絶の楽園を夢見る視聴者に絶えずささやきかける。つながりが痛みをもたらしうると分かっていても、人間はつながっていなければならないのだと。互いを記憶し、互いの手を握りしめるその瞬間に本当の私たちが存在するのだと。

「笑えない」私たちの職場の話
ここまで述べた哲学的かつ情緒的な重みだけでも『セヴェランス』は十分に印象的な作品だが、このシリーズが特に魅力的な理由は、絶妙で高度な風刺までやってのける点にある。『セヴェランス』は随所にブラックコメディーを織り交ぜ、深いテーマの障壁を下げてみせる。ルーモン社という企業そのものが、すでに巨大な風刺装置のように機能している。社員に創立者の遺言と哲学を教え込む様子はまるで宗教さながらだが、行き過ぎた企業文化や神格化された組織イデオロギーは私たちの現実でも見慣れないものではない。また、マクロデータ改良部のメンバーたちは、自分たちに与えられた業務の意味をはっきり理解していない。指示に従ってコンピュータの画面に表示される数字の塊を「怖い感覚」にしたがって分類しているだけだ。ここには、目的もなくマニュアルに依存して繰り返す労働の虚しさが正確に捕えられている。菓子や玩具、パーティーなどが「褒美」として提供されるプログラム(W.I.C)や、チームの士気を高めるための野外行事(ORTBO)も同様に滑稽だ。社員のための福祉を装っているが、実際は従業員の管理や監視の別の手段に過ぎない。特にORTBOは、職場の外ですら会社のルールや上司の顔色窺いから逃れられない様子を描き、企業が「自律性」という幻想をどのように操っているかを明らかにする。オフィスドラマ『セヴェランス』は、制作陣によって構築された精密な視覚的言語によってさらに輝いている。目を疑うほどミニマルなルーモン社の社屋デザインは、プロダクションデザイナーのジェレミー・ヒンドルによるものだ。「管理」と「孤立」を象徴するアーキテクトデザインは、やり過ぎなほど整った色使いや構造によって奇異なユーモアを醸し出す。だだっ広い密室にひっそり置かれた4つのデスクは、インニーたちの存在論的な無力感を象徴している。カメラワークも特徴的だ。人物を遠くから、あるいは正面から左右対称の構図で捉えることで、彼らが自分自身をまともに認識できず、個別性を失った組織の一部として存在していることを示している。観客も、その不快で抑圧された感情を経験させられる。ここに、過剰な感情を警戒しつつ、不安と緊張を徐々に高めていくセオドア・シャピロの音楽が加わり、作品を完成させる。そして何より、総合プロデューサー兼監督を務めるベン・スティラーの名前には注目せざるを得ない。数十年間の長きにわたってコメディー俳優として観客を笑わせてきた彼は、今やスクリーンの外から冷ややかな笑いを届ける傑出したクリエイターになった。
どうしても、誰かを愛してしまう者たち
『セヴェランス』は、この上なく青ざめた容貌をしているが、それでも私はこの物語を「ラブストーリー」と呼びたい。壊れた自分やその傍にいる同僚を描き、大切な誰かを抱きしめたいと思う感情が『セヴェランス』に満ちているからだ。つながりへの渇望は、単なる人間関係の回復を越え、完全に断絶されてしまってはならないという存在論的な真理に至る。互いを記憶し、触れようとする本能は、別の言い方をすれば「愛」になる。しかしこの愛は、決して容易いものではない。つながりには必ず痛みが伴い、その痛みの中には耐えがたい悲しみや傷が含まれている。『セヴェランス』はそこから目を背けず、愛が痛みを伴うものだということをはっきりと示している。それでも登場人物たちは、喪失の痛みと疑いの時を経てなお、互いへの思いを手放さない。痛みを経てより強くなり、何とかして再び相手に近づく方法を知ろうとする。断絶を越えてつながりへ向かう茨の道の上で、彼らは少しずつ「愛する存在」へと変わっていく。そしてその変化こそ、『セヴェランス』の最も人間的な真理なのだ。
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