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キム・リウン, ペ・ドンミ(映画専門誌『シネ21』記者), ファン・ソノプ(ポピュラー音楽評論家)
デザインMHTL
写真Chef Sung Anh YouTube

『シェフ・アン・ソンジェ Chef Sung Anh』(STUDIO SLAM)
キム・リウン:「味」に絶対的な基準は存在するのだろうか。『白と黒のスプーン〜料理階級戦争〜』(以下『白と黒のスプーン』)をはじめとする料理サバイバル番組が投げかけてきた問いだ。かつて韓国唯一のミシュランガイド三つ星ファインダイニングだった「MOSU SEOUL」のオーナーシェフ、アン・ソンジェの『白と黒のスプーン』での審査は、まるでその問いに対する答えのように映った。彼は、食材にどれほど火を入れるのか、花を使った装飾の必要性、意図の伝え方といった明確な基準によって、嗜好や主観の領域に属する「味」を説得力ある形で絶対評価する審査員だった。しかしYouTubeチャンネル『シェフ・アン・ソンジェ Chef Sung Anh』(以下『シェフ・アン・ソンジェ』)でのアン・ソンジェは、味の絶対性ではなく相対性に目を向ける。彼は、ゲストが料理をしている間、できる限り口を挟まず彼らのやり方を尊重する。ガンバス・アル・アヒージョを作る過程で刻みニンニクを使ったり、タマネギを使いすぎていることに気づいたスジの意図をくみ取り、「脱落」ではなく「保留」を差し出す。あるいは、有名な数学講師チョン・スンジェのレシピを尊重し、生の鶏肉の上にヤンニョムだれをかけたり、食材をぶつ切りにする工程にそのまま従う。『白と黒のスプーン』シーズン1で、白米がなくて料理の味が濃すぎるという理由で脱落させた出演者「チョンマン・ベクパン」の食堂では、「出されたものをそのまま食べるのが母の食卓だ」と語り、料理の情緒的な性質に注目する場面もある。その過程でアン・ソンジェの専門性は、料理を評価するための「絶対的基準」ではなく、それぞれの価値を掘り起こすための「眼差し」に変わっていく。

味覚という嗜好の領域を誰もが絶対的に満足する形で満たすことは、ひょっとすると叶わぬ願いなのかもしれない。しかし、彼が『白と黒のスプーン2』の優勝者チェ・ガンロクとの対話で交わした言葉は、その不可能に向かって誠実に走り続ける過程こそが料理の本質であると示している。商売として料理を始めたため、「できるふり、知っているふり、たくさん学んだふり」をしなければならなかったと打ち明けるチェ・ガンロクに、アン・ソンジェもまた「僕も審査が上手いふりをしているんですよ」と応えるように、頂点に立ってなお自らを省みる。父親として甘すぎる味を心配するあまり「ドバイもちもちクッキー」を「ドバイかちかち菓子」にしてしまったという視聴者の反応を受け止めて娘に謝るように、たとえ専門家であっても、見落としていた情緒的な盲点を潔く認める。もしもランプの精ジーニーに出会ったら願いごとをするかとスジに尋ねられたアン・ソンジェは、自分にとって大事なのは「過程」だから願いごとはないと答えた。その言葉どおり、完璧な味とは一瞬のひと口に向かった無数の試行錯誤が、何層にも折り重なった生地のようなものなのだろう。あらゆる食卓に相対的な価値と意味を見出すその態度が、記憶に残る味をつくる。ひょっとするとそれは、食卓に限らない「人生の味」なのかもしれない。

『シラート』(原題:『Sirāt』)
ペ・ドンミ(映画専門誌『シネ21』記者):乾いた砂嵐にさらされながら、男たちが大きなスピーカーを運んでいく。そこからテクノミュージックが響きはじめると、荒涼としていた砂漠は恍惚の空間へと変貌する。ここはモロッコ砂漠のど真ん中。許可を得ることなく大音量の音楽を流して踊る、いわゆる「レイブパーティ」の現場だ。中年男性のルイス(セルジ・ロペス)は、幼い息子エステバン(ブルーノ・ヌニェス・アルホナ)とともに、家出した娘マルを探すためにフェスティバルにやって来た。彼自身はレイブパーティの音楽を騒音だと思っている人物だが、娘が頻繁にここへ現れるという噂を聞き、そこを訪れたのだ。父と子は、マルの顔が印刷されたビラを懸命に配るものの成果はなく、目撃者には一人として出会えない。そんな中、モロッコ軍が現れて無許可で集まった群衆を解散させ、ルイスとエステバンは次のレイブパーティが開かれるモーリタニアへ向かうため、家族のように行動を共にする5人のレイバー、トナン(トナン・ジャンヴィエ)、ジェイド(ジェイド・ウキッド)、ヴィギ(リチャード・ヴィギ・ベラミー)、ステフ(ステファニア・ガダ)、ジョシュ(ジョシュア・リアム・ヘンダーソン)の後を追う。レイブパーティーや砂漠生活に慣れた彼らとは違って、ルイス親子にとってはレイブのフェスティバルも初めてならば、乗っている車も到底砂漠を耐えられそうに思えない。さらに、ラジオからは戦争のニュースが流れ、軍の目を避けながら進む彼らの道は、次第に険しく、切り立った峡谷に差しかかる。

2025年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した『シラート』を観ると、極限の情動を観客に与える映画の系譜が思い起こされる。『エクソシスト』で有名なウィリアム・フリードキン監督は『恐怖の報酬』(1977)で、ジャングルの中、爆弾を積んで軋む橋を渡るトラックに暴風雨を叩きつけた。また『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)のガス・ヴァン・サント監督は『GERRY ジェリー』(2002)で、果てなき砂漠を歩く人間が体験する極限の感覚をスクリーンに刻んだ。『シラート』がこれらの作品から強い影響を受けていることは間違いない。しかし、観客の身体を震わせるテクノミュージックは、それらの作品とはまた違ったニュアンスの情動を呼び起こす。『シラート』は、観客を見慣れない空間へ連れ出して高揚させたかと思えば不安へと突き落とし、幻覚のように朦朧とした瞬間を与え、やがて絶対的な恐怖へと追い込む。電子音楽アーティストのカンディング・レイによる音楽は、「人々が道を進む」というシンプルな物語に、このように特異な映画体験をもたらしている。ちなみに映画のタイトルにある「シラート」とは、あらゆる人間が天国へ向かうために必ず渡らなければならない橋を指すイスラム教の言葉だ。髪の毛よりも細く、刃よりも鋭いとされるこの橋は、劇中の登場人物たちの状況の正確なメタファーだ。映画館に足を踏み入れたが最後、上映が始まれば観客たちもまた、自分の「シラート」を渡ることを余儀なくされるだろう。目を逸らすことなく、その道を進まなくてはいけない。

坂本慎太郎 - 『ヤッホー』
ファン・ソノプ(ポピュラー音楽評論家):ゆらゆら帝国時代の称賛から、「ソロ」という自身だけの領域に深く身を隠してから、いつの間にか15年という月日が経った。倦怠の方を向いていたスチールギターの揺らめきは、月日を経て堅牢な「チームミュージック」の中のシグネチャーサウンドとなり、人物ではなく音楽として存在したいと語って敬遠していたライブ活動もいつの間にか再開し、アーティストとしての大衆への責務を全うしている。その間に、ストリーミングとSNSによって国境は崩れ去った。全世界からのラブコールは、坂本慎太郎にとって想定外だったに違いない。そうしてアメリカ、メキシコ、そして記念碑的な韓国を含む世界を巡る中で蓄積された音楽的経験や観客との交流をもとに、これまでになく親しげに手を差し伸べる彼の5枚目のフルアルバムが、3年半ぶりに私たちのもとへ届いた。

前作『物語のように』で感じられたサーフミュージックやロックンロールを基調とした活気とは異なり、ブルースや歌謡曲、ジャズ、ファンクなどを取り込み、意外にも牧歌的で土着的なムードが生まれているところがポイントだ。何より、特定のリファレンスを変形するというよりも、「坂本慎太郎ミュージック」のポップな進化として感じられる点が印象的だ。

ボーカルとコーラスの微妙なズレが、ある種の招待状のように響く「あなたの場所はありますか」を経て、甲高いギターとローファイなサックスサウンドが絶妙に溶け合う「時の向こうで」で、本格的にアクセルがかかる。パーラメント(Parliament)を思わせるグルーヴィーなイントロを抜けて、間奏の即興性がこれまでにない臨場感を放つ「麻痺」は本作のハイライトだ。複数の管楽器セクションやマリンバなど、基本編成以外の楽器がこれまで以上に積極的に主張し、確かな存在感を示している。はっきりした道筋を辿りながら抑制された歩みを見せる坂本慎太郎のボーカルは、音楽の解像度を高めるために、必ずしも人工的なエネルギーが必要でないことを証明している。ある意味で、時代が書き換えた巨匠の歩みは結果的に、より多くの人々と繋がるための突破口となったのかもしれない。彼の音楽が難しいと感じていたなら、本作はまさに絶好のチャンスだ。

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