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ユン・ヘイン, ナム・ソヌ(映画専門誌『シネ21』記者), キム・ヒョジン(ポピュラー音楽コラムニスト)
写真株式会社マッドハウス

『葬送のフリーレン』(日本テレビ系ほか)
ユン・ヘイン:アニメ『葬送のフリーレン』は、ひとつの結末から再び始まる物語だ。作中で、勇者ヒンメルの死が時間軸の基準となっている理由もそこにある。千年の月日を生きるエルフのフリーレンと、人間の勇者ヒンメル、僧侶のハイター、ドワーフ族の戦士アイゼン。これら4人で構成されたパーティーは、10年にわたる冒険の末に魔王を倒し、世界に平和をもたらした英雄となる。彼らはそれぞれの人生を送り、50年の時を経て再会する。ただし、千年の寿命を持つエルフのフリーレンと、人間の時間は対等ではない。エルフにとって50年はほんの一瞬だが、人間にとっては人生の半分を超える歳月だ。老人となったヒンメルを見送ったフリーレンは、限りある人の命がもたらす喪失感と後悔という感情の重みと初めて向き合う。そこからしばらく時が流れ、フリーレンはヒンメルの魂に会うため、生者と死者が対話できるという「オレオール」が存在し、かつて魔王を倒した場所である「エンデ」に再び向かう。新たな旅には、新しい仲間も加わった。フリーレンはハイターの頼みにより、彼が引き取った戦災孤児フェルンを弟子として指導し、アイゼンの弟子シュタルクをパーティーの前衛として迎え入れる。冒険者としての歩みを始めたばかりの二人にとって、フリーレンは自身の能力と経験をもとに愛のある教えを授ける道しるべとなる。その過程で、自分には勇気も実力も足りないと思っていたシュタルクは、前衛として自らの力と役割を発揮していく。一見すると平凡なフェルンは、長い時を経て蓄積された魔力によって、作品世界の中で規格外の能力者であるフリーレンの複製体との戦いに勝つほどの力を持つ一級魔法使いとして認められるに至る。長く険しい命を生きねばならないエルフの宿命からくるシニカルさと知的好奇心に満ちたフリーレンもまた、二人との関係を通して、人間のささやかな悩みや日常の尊さを深く理解していく。これは、『葬送のフリーレン』がしばしば、そのジャンル的特性によってファンタジーやアドベンチャーとして分類されるよりも、成長譚やヒーリング作品とみなされる理由でもあるだろう。

フリーレンは冒険の途中で、村のあちこちに置かれたヒンメルの銅像を掃除してほしいという住民たちの小さな頼みや、それほど重要に見えない依頼の数々を引き受ける。その報酬もまた、俗世の金や名誉ではなく、赤いリンゴを青リンゴに変えるといった取るに足らない魔導書だ。それだけでなく、フリーレンは自分にも他人にも無関心なようでいて、平凡な人間がその居場所を守ろうとする気持ちを誰よりもよく理解し、自らの力を人間たちを助けるために使う。その理由はただひとつ。「勇者ヒンメルならそうしたはずだから」。このように『葬送のフリーレン』は、フリーレンがその足跡をたどるヒンメルという人物を借りて、人間の物語において英雄が備えるべき姿をはっきりと提示する。自らの力をよきことに使う勇気。その優しさは、何らかの絶対的価値を追求することよりも、自分の周りを見渡し、結果よりも過程を重んじようとする作品のメッセージにつながる。それゆえ『葬送のフリーレン』は、冒険の中で生じる葛藤や戦闘ではなく、フリーレンが回想するヒンメルの言葉のように、その冒険を「旅」として受け止める態度に重点を置く。「期待した通りに行かなくても、その過程が楽しければいい」。作品は千年もの時を生きるエルフという設定を用いて、人間として「もし二度目の人生が与えられたなら、どのように生きるか?」を比喩的に描いていると言えるだろう。取るに足らない、つまらないことが必然である人の世において、虚無に陥ることなく、どのような態度で人生と向き合うべきか。その答えは、第31話でアイゼンがシュタルクにかけた言葉からヒントを得られるだろう。「実にくだらない冒険だ。だが……不思議なものでな。仲間と共にしたくだらない冒険は、どれも掛け替えのない記憶として残っている」。

『レイの冬休み』
ナム・ソヌ(映画専門誌『シネ21』記者):数多くの映画が夏休みを理想化する一方で、冬休みはずいぶんと疎外されてきた。それが、何かが起こりそうな季節と、何も起こらなそうな季節の違いだろう。しかし、『レイの冬休み』は、沈むからこそ浮かび上がってくる物語もあるのだと教えてくれる。

タイトルにもなっている主人公のレイ(クロサキキリカ)は東京に住んでいる。母は祖母の看病で、父は仕事で、兄は家を出ていて、レイのそばにはいない。家の中をうろうろしていたレイが、近所でバスケットボールをしていて出会った韓国人の少女ギュリ(チョン・ジュウン)も似た境遇だ。異郷で暮らす父に会いに一人で遠路はるばる飛んできたものの、忙しい大人はなかなか顔を見せてくれない。

寂しさが寂しさを見つけたのだろうか。レイとギュリは偶然を絆へと変えていく。拙い英語で会話を続け、互いの家族について、未来について、行ってみたかった場所について語り合い、最後にこう付け加える。「グッバイ、シー・ユー・レイター、コール! コール!」 また会えると固く信じる彼女たちのあいさつは軽やかだ。ありふれた翻訳アプリの助けも借りずに数日間を共にした二人に芽生えたのは、正確さを期そうと先延ばしにするよりも、親しみを抱きながら今にとどまろうとするコミュニケーションの姿勢だ。パク・ソギョン監督は字幕さえ削ぎ落としながら、観客にもその筋肉を鍛えさせる。こんな冬休みなら、何度でも体験してみたい。

Jill Scott - 『To Whom This May Concern』
キム・ヒョジン(ポピュラー音楽コラムニスト):11年ぶりにリリースされたジル・スコット(Jill Scott)による6作目のフルアルバム『To Whom This May Concern』は、単なるカムバック作にとどまらない。これは、彼女の芸術的地平がどこまで拡張しうるかを証明する壮大な叙事詩に近い。

今回のアルバムで最も際立った特徴は、そのテーマ意識だ。過去作とは違った軌道を描くものの、その本質は失われていない。前作『Woman』が、成熟した女性として経験した個人的な愛と内面の告白に焦点を当てていたとすれば、本作はその視線を外へと向け、「私たち」という共同体と「人間性」というディスコースを真正面から見つめる。それでも、彼女の語る共同体の中心には依然として「女性たちの連帯」が揺るぎなく存在している。

その連帯のメッセージは、アルバムに収録された「Pressha」や「Beautiful People」に鮮明に表れている。「Pressha」が現代の女性たちが向き合う様々な社会的プレッシャーを鋭く洞察し、抵抗のエネルギーを放つ一方で、「Beautiful People」はその熾烈な人生を生き抜く人々に、包容力とぬくもりのある慰めを差し出す。このようにジル・スコットは、冷たい現実批評と熱い人間愛を自在に行き来し、同時代を生きるすべての女性に誰より立体的なエールを送る。

音楽的な文法もいっそう大胆になった。ハウス、ヒップホップ、エレクトロニックの要素を積極的に取り入れ、サウンドの外延を広げた。特にハウスビートを使った「Right Here Right Now」は、彼女の音楽的感覚が今なお鋭さを保っていることを見せつけている。さらに、J.I.D、ティエラ・ワック(Tierra Whack)をはじめとする若きアーティストとのコラボレーションは、アルバムに現代的な色彩と躍動感を加えている。

11年という長い空白は、ジル・スコットにとってより豊かで強固なインスピレーションを満たすための時間だった。「創作に困難を抱えていたのではなく、創作のための休息を取っていただけ(I did not have a creative block, I just took a creative break.)」という彼女の言葉通り、本作は待ちわびた月日を補って余りある完成度を誇っている。再び響きわたる彼女の声は、混乱の時代を生きる我々を、そして何より自分自身の声を探そうとする数多くの女性たちを、やさしく、そして力強く抱きしめてくれる。

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