2024年12月、チャーリー・XCXは、映画監督のエメラルド・フェネルからテキストメッセージを受け取った。2人は面識こそあったものの、これといった親交があるわけではなかった。エメラルド・フェネルは映画『嵐が丘』(原題:Wuthering Heights)の脚本を読んでほしいと頼んだ。彼女はその作品を音楽として表現できそうかと尋ね、映画のサウンドトラックに使う曲をひとつくらい提供してもらえれば、と考えていた。だがそこで、チャーリー・XCXが「アルバムを作るのはどう?」と答えたことによって、『brat』の後続作となる『Wuthering Heights』プロジェクトが始まった。
2024年の『brat』は、単なるヒットアルバムではなく社会現象だった。おかげでチャーリー・XCXは、あらゆるフェスティバルとパーティーの主役となり、最も多忙なポップスターになった。そんな彼女がなぜ、12曲入りのサウンドトラック制作を引き受けたのだろうか。これについてチャーリー・XCXは自身の口から説明することを選んだ。2025年11月、彼女はニュースレター「charli’s substack」をスタートさせた。最初の投稿「夢の中での足踏み(Running on the spot in a dream)」で彼女は、『brat』以降に味わった創作者としての疲労感を素直に打ち明けた。何年も抱えてきたアイデアの最後の一滴まで絞り出して、さらに先へと進みたいのに、自分が枯渇していると感じる苦しみを吐露したのだ。まさにそのとき、チャーリー・XCXは『嵐が丘』に新たな世界を見つけた。彼女自身の表現を借りれば、それは生々しく、ワイルドで、性的で、ゴシックで、英国的で、苦悩に満ち、リアルな文章や句読点、文法に満ちていた。またその世界は、タバコやサングラスを必要としなかった。
では、これを反対から眺めてみよう。エメラルド・フェネルの脚本は、チャーリー・XCXにどのようなインスピレーションを与えたのだろうか? 彼女は大成功を収めた長編デビュー作『プロミシング・ヤング・ウーマン』、そして激しい賛否両論を巻き起こした『ソルトバーン』によって、若き作家としての地位を確立した。彼女は『嵐が丘』を考証に忠実な時代劇として作るつもりはなく、「10代の少女が初めてこの本を読んだときの感情を再現する」ことを意図したと明かしている。映画は原作後半の復讐劇の部分を削除し、キャサリンとヒースクリフの致命的で超越的なロマンスにスポットを当てる。そこにエメラルド・フェネル特有の挑発的なビジュアルが加わることは十分に予想できる。平凡なオーケストラ編曲では、彼女の挑発的な意図が無力化されうる。そこに必要なのは、メロドラマと現代的な破壊性をつなげる音楽だ。先述したチャーリー・XCXが脚本を読んだ後の感想は、エメラルド・フェネルが正しいミュージシャンを見つけたというシグナルだったのだ。

2026年2月13日、映画とアルバムが同時に公開された。誰もが彼女のニューアルバムを待ちに待っていたその瞬間、チャーリー・XCXは予想を超えた転換を見せる。『Wuthering Heights』は、ハイパーポップでもクラブのためのマキシマリズムでもなかった。チャーリー・XCXは、ジョン・ケイル(John Cale)がヴェルヴェット・アンダーグラウンドのために示した音響規則としての「優雅で野蛮な(elegant and brutal)」美学に従う。それを実現するために、彼女が長年タッグを組んできたフィン・キーン(Finn Keane)は、オートチューン・ボーカルのメランコリー、低くうなるドローンのようなストリングス、インダストリアルのフィードバックが衝突するサウンドを築き上げる。
アルバムで最初に公開された1曲目の「House」は、まるで宣言だ。この曲の多くの部分はジョン・ケイルのモノローグで満ちている。張り詰めた鋭いストリングスサウンドを背景に、彼は自身が作った世界に自分自身を閉じ込めた永遠の囚人に扮する。その後ろで、オートチューンを通したチャーリー・XCXの歪んだ声が悲鳴を上げる。「この家で死ぬ気がする(I think I’m gonna die in this house)」。この選択は、ストリーミングのアルゴリズムよりも映画的な緊張感を優先している。「Wall of Sound」は、そのタイトル通りの威力を発揮する。「Eyes of the World」には、しばらく活動を中断していたスカイ・フェレイラ(Sky Ferreira)が参加した。彼女のざらついたボーカルと沈鬱な空気は、チャーリー・XCXの現代的な金属性と出会う。自己破壊的な衝動と、抑圧的な社会の視線から解き放たれたいという渇望が出会うかのように。

サウンドトラックという外皮が創作の自由へとつながったのだろうということは想像に難くない。『SLATE』によるレビューが指摘したように、チャーリー・XCXは『嵐が丘』の脚本に魅了されただけでなく、それが『brat』以降の方向転換に有効だと見抜いていたのだろう。パーティー・ガールのペルソナは、崩れゆく海辺の屋敷に灯る蝋燭の陰鬱な雰囲気へと置き換えられた。『brat』で見られた現代的なリファレンスを取り除いたこのアルバムは、アーティストが自ら完成させた商業的な型をあえて破壊し、次の段階へ進んでいることを強調する。だがこのアルバムは、単に「異なるための存在」ではない。なぜなら『Wuthering Heights』は、『brat』よりも、それ以前の初期作品群と比較したときに魅力的な接点が浮かび上がってくるからだ。
このアルバムは、2013年のデビューアルバム『True Romance』の精神的な続編とも言える。チャーリー・XCX本人も、2枚のアルバムは姉妹のようなものだと言及している。『True Romance』は、暗いゴシックポップの美学、シリアスなメロドラマ、ムードのあるシンセサイザー編曲によって称賛を受けた。それから十数年後にリリースされたこのサウンドトラックは、デビューアルバムの憂鬱な渇望と前衛的なポップ感覚を蘇らせながらも、それを大きく成熟させている。『True Romance』は、インターネット文化とローファイな電子音楽を通じて「失恋」を探究する若きアーティストの作品だった。『Wuthering Heights』は、デジタル合成された憂鬱を、ライブの弦楽四重奏とレジェンダリーなアーティストによるフィーチャリング参加がもたらす屋敷の軋みに変えた。これは、幼少期のゴシック・メランコリーが成長期の一時的なフェーズではなく、映画的スケールの中でようやく花開いたチャーリー・XCXの芸術的なエッセンスであることを証明している。

これこそ、『Wuthering Heights』が映画への従属を超え、独立した作品としてより良く機能するアルバムである理由だ。エメラルド・フェネルによる映画では、脚本に加えてきらびやかな視覚の饗宴が繰り広げられる。時代にそぐわないハイファッションが登場し、キャサリンの寝室の壁は彼女の肌を連想させる質感で覆われている。チャーリー・XCXの音楽は、現代的なスペクタクルの一部になるのでも、そこから生じる論争から逃れるのでもなく、原作の独創性と悲劇的なナラティブにそのまま溶け込んでいる。さらに、キャサリンとヒースクリフの関係にスポットを当てる作品の意図を、「優雅で野蛮な」やり方で完成させている。それは弦楽アレンジのように美しく、同時にインダストリアル・サウンドのように苦痛に満ちていて、破壊的だ。
こうして私たちは、チャーリー・XCXが2025年という一年をかけて、『brat』の時代を徐々に、しかしきっぱりと、確実に終わらせてきた旅路の裏側で起きていたことを知るに至る。彼女は、自らの創造力がストロボの明滅するクラブの中だけでなく、文学的な悲劇の中でも力強く輝くという確信を形にしていたのだ。その間に、『brat』は腐食し、擦り減り、燃え尽きた。チャーリー・XCXは、次のステージへ進む準備ができている。
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