カウンセラーからよく料理をするようにアドバイスされたことがある。手で材料を洗い、切り、炒めながら身体感覚を目覚めさせるという意味だった。台所に入らない限り、香りや味まで見当をつけながら五感を活用することは少ないので、アドバイスは無意味なものには聞こえなかった。少し首をかしげただけだ。カウンセラーが私の防御規制を突いて料理を勧めたからだ。そして私に、感情と向き合うことができず、状況を論理的に解釈しようとする習慣があると言った。つまりこう言いたかったのだ。「考えるのを止めて、感じてください」と。不快なところのないメッセージだったにもかかわらず、心の片隅がへこんだのは、映画雑誌の記者だという生業のせいだった。個人的な刺激にすら鈍感なのに、映画の中の他人が経験するあらゆる心情にどうやって気づいて来られたのだろうか。これまでスクリーンが放つほのかな情緒をどれほど見逃してきたのだろうか。私は分不相応な職業を選んだのかもしれないという憂いに浸った。
それとは別に料理は一生懸命した。防御規制を補うのに役立ったかは確信できないが、デリバリーアプリの支出を減らす効果はあった。ちょくちょく努力した。豆腐の水分、ほうれん草の土の香り、生卵の粘度といったものを意識してみようと。ニラを切る時包丁に滲む緑、人参を触った時に手に残る黄色、鶏肉を茹でる時水に浮かぶ白い花も記憶に留めた。レシピを見なくても、ぱっぱと作れるメニューが増えてようやく気づいた。私は自分の感情から逃げているくせに映画を観ているわけではなかった。自分の感情から逃げているからこそ、映画を観るのだった。それを観て、登場人物の感情に自分のそれを重ねてみるのだった。「私もああだった、ああではなかった、あれよりひどかった…」とぶつぶつ言わせてくれたのが映画であり、演劇であり、小説だった。自ら避難所に隠れておいて、そこにふさわしくないのではと心配していたなんて笑える。逃避する資格というものはない。逃避したい記憶とそこから抜け出せなかった現在があるだけだ。

そんな人物たちにヨアキム・トリアー監督の新作『センチメンタル・バリュー』でも出会った。父と娘である彼らが私と同類だと気づくまでに長くはかからなかった。彼らの職業のためだけではない。彼らが職業を全うするやり方のためだ。父グスタヴ(ステラン・スカルスガルド)は映画監督だ。15年間新作を完成できずにいたが、かなり規模の大きい映画祭で回顧展を開催するほどの名声があった。彼の長女ノーラ(レナーテ・レインスヴェ)は舞台俳優だ。舞台恐怖症に怯えながらも「ハムレット」役を選ぶ勇気は失っていない。一見同業に従事する者として影響を与え合ってきたように見える二人は、ずっと距離をおいて暮らしてきた。長い間家族から離れていたグスタヴは、離婚した妻、つまりノーラの母親が亡くなってようやく二人の娘の前に現れる。グスタヴは義理を尽くしているかのように平然とした表情を浮かべるが、姉妹はうろたえ、やがてあきれてさえしまう始末だ。母親がこの世を去ったら、父親が娘たちの世界に戻ってきたわけだから。再会はさらなる要求へとつながる。グスタヴがノーラに分厚い台本をぽんと渡す。「お前のために書いたんだ。演じられるのはお前だけだ」。
『センチメンタル・バリュー』はこの唐突な出演依頼に文脈を与えるシーンで埋め尽くされている。父親は何を撮りたいのだろうか。それがなぜ娘のためなのだろうか。反省文でも書いたのだろうか。ヨアキム・トリアー監督は、紙の束を間にしたグスタヴとノーラの対面直後、彼らがそれぞれの職場を行き来する姿をつなぎ合わせるだけだ。グスタヴが過去に次女アグネス(インガ・イブスドッテル・リッレオース)を出演させ、自分の母親のトラウマに関連する映画を作ったこと、新たに制作しようとしている映画でも母親の死を扱おうとしていること、結局ハリウッドの有名俳優に譲ったその母親役を長女ノーラに演じさせたかったことが次第に明らかになる。カメラをツールとして家系的なものから来ているのかもしれない自分の問題を探究してきたグスタヴは、アグネスの息子の誕生日プレゼントに『ピアニスト』(ミヒャエル・ハネケ、2001)と『アレックス』(ギャスパー・ノエ、2002)のDVDを持ってくる。女性と母性を理解させてくれるだろうと言って。孫が祖父のプレゼントをいつ感謝するかは未知数だが、観客としてその祖父がどんな母親と生きてきたかぐらいは推測できる。彼がなぜノーラに母親と似た面を見出したのかも。
ノーラにも演技が切実なものであるわけがある。彼女は仲間に「人物を構築すること」が好きだと語る。他人になりきってその感情を感じていると、自分の感情も安全に感じられるという理由からだ。『センチメンタル・バリュー』の冒頭シーンを飾った、ノーラが6年生の時に書いたエッセイがその例だ。ノーラは物事に「なりきってみろ」という課題を出され、自分が暮らす家の視点で文章を綴る。映画の始まりと同時に流れるナレーションはよくある「空間の擬人化」のようだが、実はノーラが家になったと想像して初めて打ち明けられる家庭事情だ。両親のけんかが増え騒音に耐えなければならなかった家、父親がいなくなってからは沈黙を嫌がるようになった家…。ノーラは自分を消して家になることを選んだことにより正直になった。自分自身でいることが嫌なのかと問う仲間に、ノーラは力のない微笑みを返す。その静かな答えは、ノーラの中にある密かな回避傾向まで代弁している。彼女はベッドをともにした男性に「あなたが妻帯者でちょうど良かった」と言う。「私がどれくらいめちゃくちゃか向き合わなくてもいいから」と。この台詞には複合的なニュアンスが滲んでいる。ノーラはすでに自分がめちゃくちゃだということがわかっているが、妻がいるのに浮気をする男に比べたら自分のほうがましだと思っているのだろうか。というより、ノーラには自分の現実を積極的に打開していく気力がない(彼女は自殺を試みたことがある。グスタヴの母親がそうだったように)。男が独身だったら、寝る以上の関係を考えなければならない。さし当たってはそうしなくてもいいという事実に、ノーラは安堵したはずだ。男が離婚の知らせを告げるや慌てたのもそのためかもしれない。
芸術と創作というルートを経て初めて人生の曲折をようやく見つめられる人間たち。そんな自己の限界をよくわかっていながら、どうしても自らのルートを貫こうと突き進んだ人間たち。そうするうちに互いの作品に言及せずに、相手についてどんな会話もまともにできなくなった人間たち。遠ざかったまま似ていったグスタヴとノーラのそばにアグネスが一緒にいるということは、この家の奇跡だ。一緒に映画を撮るの撮らないのと皮肉っぽい態度をとる父と姉をなだめながら、うまく食事の席を設けたからだけではない。再現でコミュニケーションすることに慣れた父、姉とは異なり、歴史学者であるアグネスは史料を扱う。彼女は第二次世界大戦勃発後レジスタンスに合流したが、投獄され拷問を受けた祖母のあざの痕を記録保管所で写真で確認する。グスタヴが気づかなかったであろう、ノーラが予想もできなかったであろう資料を、ヨアキム・トリアー監督はアグネスの視線を借りて観客に伝える。
そうしてようやく黒い画面に三人の父娘の顔が幾度も交差する。その露骨なオーバーラップは、異なる文法で思考していた三人の間のとげとげしい境界をぼかす。歴史は芸術に苦痛を転移させ、芸術は歴史の苦痛を昇華する。現実と再現が切り離せないように、グスタヴと二人の姉妹も寄り添えなくても、永遠に別れることはない。彼らは願うだけだ。私が彼の言葉を、彼が私の言葉を誤解なく理解できることを。それはノルウェーで育った子どもたちにスウェーデン語で話しかけることを躊躇わないグスタヴのような父親が享受できる幸運ではないという指摘も妥当だ。しかし、そう生まれついた父親だからこそ、台本などを書いてきたのではないだろうか。アグネスのおかげで協業ができるようになったグスタヴとノーラは、不器用に、それでも新たにたどたどしい言葉を交わすだろう。監督と俳優として、父親と娘として、共通言語を夢見る存在として。
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