
ソ・ソンドク (ポピュラー音楽評論家) : 今年の「コーチェラ・バレー・ミュージック・アンド・アーツ・フェスティバル」(以下、「コーチェラ」)でのジャスティン・ビーバーのステージを批判する声は、大きく分けて2つある。まず、ステージに誠意が感じられないという批判。そして、2023年の著作権売却のせいで過去のヒット曲をまともに歌わなかったという批判だ。
まず、著作権の売却はライブで曲を歌うこととは無関係だ。今回のコーチェラではギース(Geese)がジャスティン・ビーバーの「Baby」をカバーしている。公演での使用に伴うライセンス収益が彼の懐に入らないというだけの話だ。ジャスティン・ビーバーのステージが最新曲中心になることは十分に予想できた。コーチェラに先立ってロサンゼルスで行われた二度の非公開ライブで、彼は『SWAG』収録曲のみの計20曲以上を披露している。この状況で過去の楽曲を『SWAG』期のサウンドで歌うとしたら、むしろ違和感はさらに大きくなっていたはずだ。その代わりジャスティン・ビーバーは「自分の人生は完全に公開されている」と語り、YouTube上に永遠に残る過去の自分とハーモニーを奏でた。2週目に登場した「One Less Lonely Girl」の演出しかり、彼は自らの楽曲を最も的確に歌える人物だ。
彼のステージが、コーチェラ・ヘッドライナーのセオリーさながらに発展してきた演劇的スペクタクルと異なるという理由で、「誠意がない」と断じることはできない。むしろ彼のステージは、コーチェラのライブ配信が単なる現場中継ではなく、別個の作品へと進化してきた結果だと言える。ステージデザイン、照明、大型スクリーン、撮影といった要素がひとつの総体となり、現地でしか味わえなかったはずの特別な体験を生み出す。そう言い切れるのは、それらすべてが完璧に機能していたからだ。オープニングで「All I Can Take」のローアングルが、ヴィネッティングの効いたステージと天井の照明セットを融合させる様子、「Everything Hallelujah」で同じ照明が後光のように差し込む瞬間、1週目の「DAISIES」でミック・ギー(Mk. Gee)をステージ後方の丘の上に配置し、照明と深度を組み合わせて想像上の存在さながらに見せる演出、そして最後の花火とジャスティン・ビーバーという名前が現れるスクリーンに至るまで、すべては明確に設計されている。そこに「怠惰」という言葉は見当たらない。
『去ったものは戻ってこない』(ジュリアン・バーンズ)
キム・ボクスン (作家) : 血液がんを患うジュリアン・バーンズは、妻を失い、ロンドンでひとり暮らしている。『去ったものは戻ってこない』(原題:『DEPARTURE(S)』)というタイトルは、作品の話者であると同時に著者のジュリアン・バーンズ自身についての説明でもある。そしてこの小説――あるいはこの書物――は、作家の80歳の誕生日に合わせて刊行された。これまで事実と虚構の境界を軽やかに行き来してきた彼だが、この新作(そして彼自身の言葉によれば最後の作品)はそこからもう一歩踏み込んでいる。これは小説なのか、自叙伝なのか、それともエッセイなのか。どこまでが記憶で、どこからが想像なのか判然としない本作は、ジャンルを横断するだけでなく、新たなジャンルまで生み出してしまう。しかし話者(あるいは作者?)は、ジャンルの区別はそれほど重要ではないと語る。
さほど長くない物語の前後に置かれた文章はエッセイのようにも感じられ、時には記憶の曖昧さを、もしくは死という現実を受け入れる過程が綴られる。物語の流れから脱線しすぎだと感じられる部分もあるが、作者から長年にわたって見守ってくれた読者たちへのまっすぐな感謝の言葉に触れると、読者は自然とページをめくりながら頷いてしまう。これはいわば、最もアナログな形の「シャウトアウト」に近い。物語の中盤はやや古典的な小説の形式をとり、長い年月を隔てて続く愛の物語が2つのパートに分けて緻密に描き出される。作者は愛の不条理さと複雑さに怒りを覚えながらも、同時にその美しさを讃えている。
小説であれ、事実に基づく物語であれ、読者は結局、タイトルが予告した悲しみに深く引き込まれるだろう。しかしその悲しみは希望や感謝へ向かっていく。これまでの著作を自然と想起させるこの物語には、ジュリアン・バーンズの世界をより深く味わいたい読者にとって、腰を据えて向き合う価値がある。
- 20年後、悪魔はプラダをどう着こなすか2026.04.24
- 『Fake Kim Hyoyeon』が映す、本当の人生2026.04.17
- 『イ・ソラの初めての春』が届ける慰めの言葉2026.04.10