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ユン・ヘイン
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*『ブラック・ミラー』シーズン7の主な内容が含まれています。

人間は、人間を超越するテクノロジーをどのように受け入れるべきなのだろうか。2011年に放映されて以来、絶えずディストピア的な近未来を描いてきたオムニバスSFドラマ『ブラック・ミラー』が投げかける長年の問いだ。去る4月に公開された『ブラック・ミラー』の7つ目のシーズンは、特有の想像力をもとにテクノロジーと人間の間にある長年の難題を提示する。シーズン7の6話「宇宙船カリスタ−号: インフィニティの中へ」にはデジタルクローンが登場する。それらはゲームサーバーに存在するソースコードだが、実際の人間のDNAに基づいており、現実にいる人物の記憶や感情、判断力を持っている。それらには有限の存在の恐怖を感じ、自由を求めようとする意志もある。3話「ホテル・レヴェリー」のクララは、作中の1940年代の映画に出演した俳優の情報をもとに生成された架空の存在だ。彼女は自分が受け取った情報をもとに相手役と恋に落ち、プログラミングされていない台詞を即興で言う。「むしろ爽快だわ。こんな人初めて。世界が違う」と。物理的特性以外は人間と変わらないこの存在たちを、私たちは一体どのように受け止めるべきだろうか。

『ブラック・ミラー』は、これまでのSFのように、人間とテクノロジーの発展の間の長年の問いを視覚化する。例えば、1990年代に存在していたような架空のゲームを扱う4話「おもちゃの一種」は、3:4のアスペクト比とレトロな色合いで当時の情緒を具現化すると同時に、ゲームをめぐるさまざまな論題を呼び起こす。「おもちゃの一種」の主人公キャメロンは、ゲーム雑誌社のレビュアとして働いていた時、架空の生命体「スロング」を育てる「スロングレット(Thronglets)」というゲームを偶然手に入れる。黄色の小さくてかわいいキャラクターのスロングは、まるで赤ん坊のように、時間に合わせて餌を与えたり、洗ってあげたり、遊んであげなければならない存在だ。時間と手間をかけて育てると、スロングは自己複製を繰り返し、どんどん個体数を増やしていく。同時に彼らは自分たちだけの言語体系を形成し、ユーザーのキャメロンとの交流を通して思考を拡張していく。単なる絆の形成のレベルではなく、具体的な装備の改良を要求するほどに発展したスロングたちの思考体系は、ある瞬間人間を超越し始める。このエピソードのすべてのシーンは、ゲームとテクノロジーをめぐる時代の断面を見せる寓話に近い。劇中、キャメロンはゲームの中の存在に極度に没頭し、日常が崩壊するレベルで自分の物質的、非物質的なエネルギーをすべて注ぎ込む。それとは対照的に、スロングが架空の存在だという理由でキャラクターを暴力的にいじめたり、彼らと形成する絆を軽視するキャメロンの友人ランプのような人物もいる。ユーザーがすべてを注ぎ込むように作られたゲームは、果たして倫理的なのだろうか。逆に、非物質的な存在との緊密な絆はまったく無価値なのだろうか。これに対する答えを出す前に、「おもちゃの一種」はキャメロンとの会話を通して発展する「スロングレット」の姿をAIチャットボットとオーバーラップさせ、近年の問題まで引き込む。人間はテクノロジーにデータを提供し、テクノロジーはそれをもとにより合理的なテクノロジーを提案する。さあ、誰が誰の「おもちゃ」なのだろうか。

『ブラック・ミラー』は前述の問いに対して簡単には答えを提示しない。むしろより深い現実を引き込み、より鋭い問いを投げかける。「宇宙船カリスタ−号: インフィニティの中へ」で、天才ゲーム開発者ロバートは、職場の同僚のDNAを違法に採取し、ゲームの中で再現する。彼が作り出したクローンは自意識が存在し、現実の記憶を持つ意識体系であるため、ロバートの行為は事実上人を仮想空間に監禁することにほかならない。何より彼はゲームの主人公である自分のために、このクローンが演技するよう強制したり、暴力を加えたりもする。このエピソードのデジタルクローンは、CGではなく実際の俳優たちの演技により、とてもリアルに描写されている。視聴者は外見だけでクローンと人間を見分けることが難しくなる。この奇妙な体験は、ますます精巧になるグラフィックと安易な倫理意識が結びついた時に発生する、ゲーム産業の影を反映しているようにも見える。同時にロバートが犯した一連の犯罪は、架空の設定を前面に押し出し、周囲の人々を陰湿に対象化する行為に正統性を与える、現実の問題に対する露骨な比喩でもある。『ブラック・ミラー』は、未来という素材を扱っているが、物語の核心には現実を据えている。それは、SFというよりはブラックコメディのようで、パロディというにはあまりにリアルな描写を盛り込んだ社会告発ドキュメンタリーに近い、『ブラック・ミラー』の複合的なアイデンティティにつながる。その頂点には最初のエピソード「普通の人々」がある。「エキサイティングな新しい料金プランにアップグレードしましょう」。この言葉が人に向けられることになったとしたら? アメリカに暮らすアマンダとマイク夫妻はそれぞれ教師と建築現場の労働者として働き、ささやかだが満足な日常を送っていた「普通の人々」だ。ある日アマンダが予期せぬ不治の病に直面すると、マイクはアマンダを治療するための核心的な医療技術「リヴァーマインド(Rivermind)」と出合う。「リヴァーマインド」によりアマンダは日常を取り戻すが、新たな人生の対価は少し高い。「リヴァーマインド」が「サブスクリプション制のサービス」だからだ。加入当時は少しきついがなんとか払えるレベルだった「リヴァーマインド」は、次第にサービスにグレードを設け、「普通の人々」が払えないレベルのサブスク料金を提示する。「スタンダードプラン」のままでいると、日常生活ができず、仕事ができなくなり、そうなると従来のサブスク料金さえ払えなくなる。テクノロジーは二人の夫婦に日常を再びプレゼントしたが、その間に入り込んだ資本の論理は再び日常を蝕む。それは資本を持つ少数がテクノロジーを独占する時、特にそれが生命と直結する時、人々をどのように少しずつ隅に追いやったり、消え去らせるかを見せる現実のメタファーだ。『ブラック・ミラー』は「サブスクリプション」、「グレード」「料金プラン」、「アップグレード」といった単語を人間と結びつけながら、資本とテクノロジーの間にある倫理的な危険性を直観的に説明する。

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6つのエピソードでは、毎回便利で想像力あふれるテクノロジーが登場する。記憶や写真をもとに架空の世界を具現化したり、量子力学により現実を操作するといった奇抜な設定は、それ自体がネタバレになるほどに、シリーズのおもしろさを構築する核心だ。しかし、『ブラック・ミラー』は驚くほどのテクノロジーや世界観を納得させたり説明することに関心がないように見える。大多数のSFが伝統的な意味でのヒーローや救世主を中心に物語を導く一方、『ブラック・ミラー』には『マトリックス』のネオすらいない。代わりに小市民的な人物と日常を前面に押し出す。2話の「ベット・ノワール」は、量子力学の技術の悪用により日常を操作されるマリアの人生を描いている。しかし、その技術がどのように具現化されているかは作品で重要に扱われていない。代わりに「ベット・ノワール」は、その過程でマリアが感じる違和感をできる限り詳細に描くことに集中する。マリアは自分が指示した業務内容が間違って伝わっていたり、明らかに作成したと認識していたメールの内容が入れ替わっていることに気づく。さらに、一緒に暮らしている彼氏の帽子に書いてあったチキンのブランド名を自分以外の皆が違って記憶しており、それをGoogleで検索しても同じだ。自分の記憶は鮮明なのに、周りの人々の記憶と事実はすべて異なっている。『ブラック・ミラー』はその微妙な状況を通して、社会的な孤立がどのように一人の人を追い詰めてしまうかを体感させる。そのように『ブラック・ミラー』の演出の核心は、恐ろしいほどの現実描写にある。「普通の人々」では「リヴァーマインド」のサブスクを維持するための費用を数字で説明しない。その数字はマイクの起床時間を少しずつ早めて、朝夫婦が一緒にコーヒーを楽しむ時間をなくす。または結婚記念日に思い出の場所に旅行に行っていた幸せを消し去り、仕事終わりに楽しめるビールの量を減らす。カレンダー上に増える追加の勤務日程の分だけ、二人の顔には少しずつ影が濃くなる。巨大資本がテクノロジーを侵食し、倫理的な境界線を越えた時に起きることは、革命的なイベントではなく、ほんの少しずつ日常を失うことに近い。そのような精巧な生活像は、すべての架空の状況や事件を一人称の視点に引き込み、肌で感じさせる。『ブラック・ミラー』が投げかける問いはもはやマクロ的なものではない。自分と自分の周りの問題になる。

それらすべての問いをたどった末に視線が集まるのは、結局テクノロジーではなくユーザーだ。「宇宙船カリスタ−号: インフィニティの中へ」と「ベット・ノワール」のロバートとベリティは、どちらも創造主に近いテクノロジーを持っているが、それを歪んだ自己の欲望を発散させるためだけに使う。「おもちゃの一種」もまた人間がもはやコントロールできないテクノロジーの未来を描く。「普通の人々」の「リヴァーマインド」の背後にある巨大資本もまた、人間の欲望を前提にしている。人間の脆弱性とテクノロジーが出合った時、最初に現れるのは人間の悪辣さだ。「私たちは世界の主としてあらゆる魔法の道具を作りますが、頭の中はまだ野蛮人です」。「おもちゃの一種」のキャメロンの台詞のように、人類がまだ到達していない倫理的合意の中で停滞しているとしたら、『ブラック・ミラー』が提示する葛藤と現実は深く、ゾッとするばかりだ。それ故、ドラマは「何か」を作ることより、「誰が」、「どのように」活用するのかを浮き彫りにする。『ブラック・ミラー』は「スロングレット」の開発者コリンを啓示者のように使い、ほぼ警告に近い説教をする。「私たち人間を改善できないのであれば、私たちが所有している道具に何の意味があるのか」と。

もちろん『ブラック・ミラー』は、悲観論的だったり虚無主義的な結論ばかりを見せるわけではない。鏡の両面のように、人間とテクノロジーの間に置かれた希望もある。5話「ユーロジー」は、作中追悼のために故人の周辺の人たちが持つ記憶を収集する架空のテクノロジーを扱っている。老齢になりつつある主人公フィリップは、若い頃の恋人の訃報を聞き、「ユーロジー」というシステムを知って、過去の記憶を復元し始める。フィリップは互いの誤解と間違いからもつれた別れのために、その恋人の顔を写真から一つ一つ消してしまったせいで、彼女の顔すら思い出せない。しかしフィリップは、「ユーロジー」を通して第三者の立場で再び記憶をたどりながら、過去の自分が発見できなかった、あるいは目を背けていた真実と向き合うことになる。そうしてどんなに頑張っても思い出せなかった恋人の顔と向き合うことになり、心からとり返せない過去を後悔すると同時に、受け入れられるようになる。苦しみに耐えながら直視する姿勢は、内面の変化をもたらす。それは、テクノロジーが真の意味の助けになって人間に作用する時に発生する新たな可能性だ。「ホテル・レヴェリー」もまた、テクノロジーを基盤に進んでいく者たちの物語を描く。「ホテル・レヴェリー」の主人公ブランディ・フライデーはハリウッドで成功した黒人女優だが、いつも芸術映画の悲劇的な女性や商業映画の男性主人公の相手のヒロイン役を演じるだけだった。そんな中、彼女は過去の映画や俳優についての情報を入力してAIで具現化する新技術「リドリーム(Re Dream)」によりリメイクされる1940年代のクラシック映画の主人公を演じることになる。彼女は過去に白人男性が演じていた主演キャラクターを自分の姿のまま演じるが、AIで生成された人物たちは彼女を性別や人種で判断しない。そのため、1940年代に黒人女性のブランディと白人女性(でありAI)のクララが恋に落ちても、誰もそれに違和感を抱かずそのまま受け入れる。テクノロジーは現実で不可能な制約を超えさせ、その結果「時代を先取りした物語」を作る手段にもなり得る。

繰り返すが、その先にあるのはユーザーの問題だ。「ホテル・レヴェリー」が残したある余韻には、結局ブランディとクララが伝える感情がある。「ホテル・レヴェリー」の撮影中、技術的な不具合で進行が中断された時、二人の人物は二人だけの世界の中で生きて動くことになる。二人は自分たちに与えられた世界を探索し、お互いについて知っていき、ユーモアを交わす。まるで世界に二人だけしか存在しないような感情の深さをそのまま描写したそのシーンは、テクノロジーで具現化した想像力で現実の固定観念を超える。ドビュッシーの「月の光」の旋律は、劇中のブランディが演じる役とクララに互いに一目惚れさせる曲だ。ちょうどブランディとクララのロマンスを背景に流れる「月の光」の旋律は、ひときわ美しく響きながらも、少し荒く演奏される。まるでこの二人の不器用だが美しい関係を聴覚的にも表現するかのように。「白昼夢」という「レヴェリー(Reverie)」の意味そのままに、すべてがブランディの経験した一夜の夢であっても、そのすべてがただのデータに過ぎないとしても、その中で生まれた感情は消えない。映画の蓋然性と構造が論理的に合致して初めてエンディングにたどり着ける「リドリーム」システムの中で、絡み合った事件により不可能だったエンディングを可能にしたのは、ブランディへのクララの愛だ。それは『ブラック・ミラー』が見つけたある超越的な希望だ。「ユーロジー」で自分の過ちを認められるようにさせたフィリップの意志は、人間性に起因する。論理構造を超えたブランディとクララの愛も同じだ。人間の不完全さは、テクノロジーをコントロールできない明確な理由だろう。しかし、合理性と計算を超えられる不完全さの可能性もまた人間のものだ。『ブラック・ミラー』シーズン7は、結局そのすべての複雑さを内包している、人間の本質についての物語だ。

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『ブラック・ミラー』シーズン1の最初のエピソード「国歌」は、このシリーズの型破りなアイデンティティを印象づけた。誘拐されたイギリスの王女を救うために、首相が非人格的な映像をリアルタイムで公開しなければならないと脅迫するこのエピソードの核心は、王女が誘拐されたり解放される過程に起因しない。誰かがだめになる姿を覗き見ようとする群衆心理から、大義のために少数の意見は無視してもいいと考える人間の習性と行動に対する鋭い指摘は、世界中の視聴者を衝撃に陥れた。しかし、『ブラック・ミラー』シリーズの型破りなところは、単に設定から来る刺激ではない。もちろんエピソードはどんな方向であれ、テクノロジーの発展と人間の根本的な面を極端に引き出し、精巧に表現している。だからこそこのドラマには不快さと美しさ、衝撃と感動が共存する。『ブラック・ミラー』の脚本家チャーリー・ブルッカー(Charlie Brooker)は、シリーズ初期に行ったインタビューで、『ブラック・ミラー』というタイトルが日常で見つけられるテレビ、モニター、あるいはスマートフォンの黒い画面を指すと説明したことがある。14年が経った今、誰もがスマートフォンを手に誰かの没落を覗き見る時代が到来した。その影響力は、すべてを歪めながら飲み込むブラックホールのように、すでに予測やコントロールが可能な範囲を超えている。その黒い画面から何を発見し、何を映し出すかは、本当に人間の手にかかっている。エンディングクレジットが流れる時、黒い画面の中のあなたはどんな表情をしているだろうか。

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