FEATURE
頼もしい軽やかさ、トム・ホランド
『オデュッセイア』と『スパイダーマン』から読み解くトム・ホランド
Credit
ナム・ソヌ(映画専門誌『シネ21』記者)
写真(上から)ユニバーサル・ピクチャーズ、ソニー・ピクチャーズ

「ペドロ・アルモドバル? 誰ですか」
 
2019年、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』の公開当時、ミステリオ役で共演したジェイク・ギレンホールがスペインメディアとのインタビューで「ペドロ・アルモドバル監督の『スパイダーマン』が見てみたい」と語った直後、隣にいたトム・ホランドが放ったひと言だ。ホランドの発言はネット上で激しい批判にさらされた。俳優という職業に就いていながら、世界的な巨匠の名前をなぜ知らないのか、無知を堂々とさらすのは無礼だ、と。20代前半の若さだから仕方がないだろうという擁護もあったものの、それはごく少数にすぎなかった。
 
正直なところ、私はこのいわゆる「失言」にちょっとした痛快さを覚えた。ペドロ・アルモドバルも彼の作品も好きだが、誰もが彼を知っておくべきだとは思わない。むしろ、「これは絶対に知っておかないと」と自信満々な態度のほうを警戒したくなる。知ったかぶりをするくらいなら、知らないものは知らないと言うほうが潔い。まして映画界には、人の趣味や見識を試そうとする人間が掃いて捨てるほどいる。少なくともトム・ホランドは、そんなくだらないことには興味がないようだった。
 
もちろん、聞き慣れない名前を耳にした瞬間に「誰ですか?」と聞き返すより、しばらく黙って聞いておくほうが大人らしい振る舞いではある。(イギリス人とはいえ、)ハリウッド大作の専属スターとも言える俳優がヨーロッパのアートハウス映画に興味がない姿を見せれば、軽薄と思われるのも無理はない。しかし、トム・ホランドとはそもそも誰だろうか。あの頃も今も、彼はあのピーター・パーカーではないか! 並外れた能力を持ちながらもうまく扱えず、正義感は強いのに、時にその未熟さゆえ事を台無しにしてしまう少年。彼は私たちの前で常に不器用な姿を見せてきたし、それを隠すこともなかった。それこそが、大衆がスパイダーマンを身近に感じてきた理由でもある。言い換えれば、自分の立場を考えて黙っているよりも、自ら無知をさらしてしまうほうが断然ピーター・パーカーらしい。トム・ホランドは、図らずも現実世界でそのキャラクターを再現してしまい、一時的には非難を浴びたものの、なぜ彼がこの世代のスパイダーマンなのかを証明した。少なくとも、私の目にはそう映った。

落下の感覚、成長の糧となるもの
7月29日に劇場公開されてから、わずか2週間で観客動員数750万人を突破した『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』(以下、『ブランド・ニュー・デイ』)の主人公は、以前とは違っていた。ピーターも、彼を演じるトム・ホランドも、これまでと同じように未熟さを理解してもらえる立場にはない。ピーターと同世代の若者たちは大学を卒業し、社会に出ようとしている。ホランドは、今や数百億ウォン単位のギャラを受け取り、上の世代のアベンジャーズが去ったマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の新たな支柱として位置づけられている。その重みを当然のように内面化した物語には、冒頭から沈鬱さが漂う。前作でマルチバースのスパイダーマンたちと力を合わせたピーターは、唯一の家族であるメイおばさん(マリサ・トメイ)を失う。さらにドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)に頼んで、あらゆる人の脳裏から自らを消し去る。あまりに一方的な喪失だ。メイの墓や、MJ(ゼンデイヤ)とネッド(ジェイコブ・バタロン)のInstagramを見つめているのは、ピーターただ一人である。
 
そんなシチュエーションで『ブランド・ニュー・デイ』の幕を開けるトム・ホランドの声は、淡々としている。どこか飄々としてすらいる。大きな喪失を経験した後、自分よりも先に周囲を安心させようとするかのような声で、MJに宛てた手紙を読み上げる。それは、5年ぶりにシリーズへ戻ってきた俳優が、観客へ送る再会の挨拶のようにも聞こえる。過去に何があったにせよ、ひとまず「久しぶり」と手を振ってみせる佇まい、とでも言おうか。ホランド扮するピーターには、いつ何時でもある種の軽やかさがあった。物理的な面だけでなく、そもそも彼は悲壮感といったものとは無縁だった。それでも、ピーター・パーカーであると同時にスパイダーマンでもある青年が、いつの間にか落下の感覚に慣れてしまったことは否めない。『ブランド・ニュー・デイ』のホランドは、顔を覆って登場する大半の場面でさえ、これまでにない落ち着きで自らの役目を果たす。自ら放つクモの糸で、自分の体を支えてきたヒーローらしく。
 
『ブランド・ニュー・デイ』の穏やかなトーンは、ロマンス描写においても維持されている。この点で本作は、『エターナル・サンシャイン』のカップルを想起させる。かつて恋人同士だった二人が、とある技術の介入によって記憶の不均衡を経験することになるからだ。ただしトム・ホランドは、ジム・キャリーが見せた幅広いスペクトラムの失恋演技とは異なるルートを選ぶ。自分が凡人ではないことを自覚する男は、彼女の世界から自分が消えて久しいという事実も、痛みとともに受け入れる。自分を見分けられない女を前にして、男はためらうことなくカフェの客という立場へ戻っていく。このとき、ホランドは一瞬ふっと力が抜けたように、ため息にも似た声でコーヒーを注文する。切なさが募るほど抑えるべきだとはわかっていながらも、驚いたその瞳までは隠さない一瞬の繊細さ。ホランドはスパイダーマンのマスクの下で、ずっとそうやって機敏に反応してきたのだと観客に納得させる。

父なしで王になる
アイアンマンの存在なしにこの地点までやってきたトム・ホランドのスパイダーマンは、自分のアイデンティティをすっかり把握した状態で『ブランド・ニュー・デイ』を締めくくる。「お前はスパイダーマンなのか、それともピーター・パーカーなのか」と問う相手に、「どちらも自分だ」と言い放つ力強さは、いよいよMCUの新たなページを開くホランドの俳優としての力に期待を抱かせる。奇しくも彼はこの夏、映画『オデュッセイア』でも似た状況に置かれた役を演じた。オデュッセウス(マット・デイモン)の息子テレマコスを演じたホランドは、インタビューで「テレマコスは16歳だと思って演じた」と発言し、またしてもネット上で叩かれた。神話では、オデュッセウスはトロイア戦争に向かうため故郷を離れてから20年以上経っている王だからだ。テレマコスが16歳だとすれば、どう考えてもオデュッセウスとペネロペ(アン・ハサウェイ)の息子ではないだろう!
 
私としては、この一件でもホランドの肩を持ちたい。彼がクリストファー・ノーランの脚本から読み取ったテレマコスは、16歳の少年と変わらない人物だったのかもしれないではないか。監督の許容する範囲で表現されたのであれば、彼の判断を明らかな間違いだと責めることはできない。それよりも、その判断をホランドがどう形にしたのかを振り返るほうが興味深い。『オデュッセイア』におけるテレマコスの活躍はささやかなものだ。そもそも登場時間が長くないうえ、終始、母とその求婚者たち、戻ってこない父の幻影に翻弄されている。そんな人物にほんの少しカリスマ性を持たせたところで、余計に滑稽になってしまうことを計算したかのように、ホランドは終始口元を引き締め、せめて真剣なふりでもしなくてはならない幼い王子を体現した。自分のそばにいなかった父親がどんな人物なのか知りたがるときの表情だけが、無垢なほど澄んでいた。やがてテレマコスは父と再会して王位を受け継ぎ、それまで登場した英雄たちと比べると、どこか威厳に欠けたデザインの金冠をかぶる。ホランドは、ほんの数秒しかないその戴冠式で、意味ありげなようにも、そうでないようにも見えるほほ笑みを浮かべる。

父なくして王になった男の困惑。それでも、どうにか生きていけそうに思える素朴さ。今、トム・ホランドという俳優が内包する軽やかさには、そんな匂いがある。『オデュッセイア』と『ブランド・ニュー・デイ』で彼が体現したキャラクターたちは、それぞれオデュッセウスとアイアンマンという巨大な影に覆われているが、彼らの権威までは受け継いでいない。前世代が突然いなくなり、彷徨う中で責任ばかりが増えていったようなものだ。『オデュッセイア』では克服の過程にさほど大きな比重は置かれなかったが、ホランドが『ブランド・ニュー・デイ』に至るまで、ピーター・パーカー、そしてスパイダーマンとして生きてきた10年という歳月については、確かな頼もしさがある。彼は自分に課されたものを意識しながらも、高圧的な男性像を繰り返さない方向へと、自分に足りない部分を仲間によって補う方向へと進んできた。
 
なかでも、『ブランド・ニュー・デイ』でジーン・グレイ(セイディー・シンク)と交わす真摯な会話は、彼がなぜ成長のアイコンとして刻まれつつあるのかを示している。失敗の経験があるからこそ持てる寛容さ、幼稚だったからこそ可能になる成熟。それが、あの場面のピーターを紐解くキーワードだ。そしてそれは、これからホランドを見る観客の目にもかかるフィルターではないだろうか。30代になったばかりの彼を2本の映画で確かめた数日間は、この猛暑の中、映画館で味わった稀有な喜びだった。

Copyright ⓒ Weverse Magazine. All rights reserved. 無断転載及び再配布禁止